『ミノタウロスの皿』

またしても『ミノタウロスの皿』について語りたいのですが、

マンガは見開きの2ページをk本単位として成り立っているらしいということと、形の似ているコマには描かれている内容にも同質性が見られる、ということについてですが、


ものすごくさらっと流されていますが、
主人公の目の前で何人も人が死んでいます。目の前で人がバタバタ死んでいくのを見ていると、この後の展開に主人公は別に驚きゃしないんじゃないかと思ってしまいます。

たった一人で、とある惑星に不時着するための方便に過ぎないんですから、さらっと流すのがいいんでしょうけれども。

左のページで、宇宙船の外面と内面が対角線で区切られており、
外面の静寂と内面の絶叫が対称関係。

この見開きでは、起承転結の構造ができていません。

起と承だけで、次の見開きにつながります。


この見開きに関しては、ページをまたいで、中央にコマ二つ。下の方がより大きくて、このコマ一つを見れば、ほかのコマはなくても物語はわかります。

見開き一つで、転を示しています。




この前、取り上げた見開きです。
ここは、起承転結が非常にはっきりと見開きの中で示されています。
それゆえものすごくまとまった印象があり、非常に目立つ見開きであります。


導入部やクライマックスで、展開を早くしたいときは別として、
このマンガは、一ページを二つに区切り、見開きで計四つの部分を成すのが基本らしい。
右側のページは、大まかに三つの部分に分かれるのですが、
男の子がキスしようとしたら、女の子が逃げるんですけれども、
このページは、男の子が女の子と幸せな時を過ごしたことを示しているだけで、右端の二人一緒に佇む場面が一枚あれば、本当は十分なはずなのでしょう。
左側のページは、承と転だと思われますが、
よくよく考えてみると、四コマ漫画は、それぞれのコマの流れに必然性があり、そのツナガリが承と転の間であろうともスムーズなものでなくてはならないはずです。
そのスムーズさを演出するために、人物の向きや位置を同じにするとか、小道具を軸にするとかの技法があるのだと思います。

そして、この場合では、バラを使うことで、承と転の間にスムーズさを持ち込んでいますし、コマ群の分割を少々崩すことでスムーズな展開を意図しているようです。


それぞれのページは、きれいに上下分割され、見開きで四つのコマ群を形成しているんですが、起承転結を明確に表してはいないようです。
このコマ割りは、絵物語の少年王者とかに似ているように思えるのは私だけでしょうか?
それぞれのコマ群は一枚の絵で表現できるはずなのでしょうけれども、言葉で説明する代わりに、小さなコマをいくつか付随させて説明していると思われます。


マンガの特徴は、見開きページの内容は、一度気に視界に飛び込んでくるものですから、見開き内ではそれなりにスムーズな展開が心がけられることです。
何か突飛な展開が生ずるとすれば、次の見開きを待たねばなりません。

この見開きは、そういう箇所でして、
女の子が実は家畜であり、更に言うと、食用種だったということが明かされます。
非常に残酷な箇所で、主人公は飛んで駆け出していきます。

しかし
それでも、前の見開きで、愛玩種、食用種、労働種、という言葉が出てくること、そして牛が人間以上の知性を持っていることが示されておりますから、
この突飛な展開には、ちゃんと伏線が貼られており、一定のスムーズさが確保されています。



これらの見開きは、四分割の構成で成り立っていますので、山川惣治絵物語的にまとめてみますと、
私の場合は、このようになります。

無論異論はあるとは思いますが、これら四コマを選んで、その下に省略したコマと台詞を文字として書き足せば、立派に「絵物語」になると思います。

ただしかし、これでは、このマンガはつまらないのですね。そして、私が選んだコマよりも、藤子F不二雄はより大きなコマで、ストーリーに直接関係ないことを重視しているように思えます。


でかいコマは、作者が強調したかったこと、そのように規定し、この見開きから四箇所を選ぶと、このようになります。
ストーリー的にはわかりにくくなるとは思いますけれども、このマンガが伝えたかった情感、メッセージは、こちらの選択の方が正しいのではないでしょうか。

運命を受け入れた女の強さと美しさ、
なまっちょろい人道主義の弱々しさ、無意味さ、そして、その一人相撲。

そういうイメージに溢れているように私には思えるのですね。

事実、発展途上国に行けば、この女の子のように自分の境遇と運命を受け入れて平然と生きている人たちってたくさんいるのです。
それを先進国の立場から見て、かわいそうだとか、もっといい人生があるとかいうのは簡単ですが、
そういう境遇の人たちを、その人生のバックグラウンド、社会とか家族とか常識とかから引き剥がしたとき、それで生きながらえることができたからといって、彼なり彼女たちは幸せになれるんでしょうか、という疑問は、グローバリズムの現代では普通に私たちも体験できるわけです。

それに、日本においても、家族を救うために身売りした女の人なんて、50年くらい前までは普通にいましたし、
特攻隊で死ぬことを名誉だと割り切っていた人たちもたくさんいたわけです。

そういう人たちは、無知蒙昧なのかもしれませんけれども、しかし、自分の運命を受け入れた強さと美しさはあるのではないでしょうか?

藤子F不二雄の世代なら、そういう世界を私たちよりもリアルに感じて生きてきたと思うんですよ。

マンガには物語があると同時に、サブリミナル的な情感の流れが存在し、それを読み取ることがマンガを読むことだ、私にはそう思えてなりません。