第一次大戦を映像化すること   『パイプスオブピース』

以下の内容を読まれるのでしたら、ついでにこちら(映画の抱えるお約束事)もどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。

映画は戦争によって進化した、というデンパを私はこのブログの中で放射し続けています。
画面上での登場人物の配列を、物語をポジティブな方向に進める人を進行方向手前に置き、その進行を妨げる人を進行方向の向こう側に置く、というテクニック。

これは第一次世界大戦における塹壕戦のあり方そのものです。



これは映画ではなく ポールマッカートニーのPVで「パイプスオブピース」ですが、第一次大戦で前線の兵士が短い時間でありながらも、自主判断で戦闘を停止して敵味方の区別なく交流した「クリスマス休戦」の映像化です。

イギリスにとっては、第一次大戦の戦死者は第二次大戦の戦死者よりもずっと多かったし、その戦争負担によりアメリカに世界大国の地位を奪われることからも、
イギリス人にとって戦争とは、こちらの第一次大戦のほうが重かったりするのですが、
同じビートルズのメンバーだったジョンレノンにとっては、戦争とはベトナム戦争ヒトラーだったのでしょうけれども、
保守的な思想の持ち主ポールマッカートニーにとっては、戦争とはこちらの方であり、
戦争反対、平和が一番という歌を彼が歌った場合、第一次大戦塹壕戦がテーマとなるのは必然の成り行きだったのでしょう。




第一次大戦の特徴というのは、第二次大戦やベトナム戦争とは違って、戦場における敵味方の所在がはっきりしていることです。
兵器の機動性が低く敵の後ろに瞬時に回り込むことはないですし、地面に穴掘って大砲を打ち合い陣地取りしているだけですから、ゲリラが後ろから襲ってくるということもありません。

穴から首を伸ばして前を見れば、その先には常に敵がいるという戦争です。

だから、そのような戦闘を映像化すると、敵味方が画面において左右のポジショニングチェンジを行うということはほとんどありません。


このPVでも、イギリス軍は −>、ドイツ軍は<−
に固定されています。

イギリス人もドイツ人も同じ人間で、殺しあう理由なんて本来どこにもない、というのが歌のテーマですから、
ドイツ側の将校もポールマッカートニーが一人二役で演じていますが、それでも通常の映画で主人公が採るポジションの−>側に、イギリス将校が置かれます。

何のかんの言ってもこの歌つくったのも買うのもイギリス人ですからそうなるのはしょうがないのです。


互いにハーフウェイラインまでやってきて手をつなぎ、そしてサッカーまで始めます。大体史実のとおりです。


しかしながらイギリス人−>、ドイツ人<−という構図は最後まで崩れません。
そんなこんなしているうちに大砲の弾が飛んできて、互いに自陣に逃げ帰ってやれやれという感じでPVは終わります。

よくよく考えてみると、このPVってサッカー中継の画面と非常に似ているのですね。
誰が敵で味方かを画面の左右の方向で示し、敵味方の区別が見るものにとってできなくなると困るから、画面の左右切り替えしを基本行わない。
そして勝つ方はハーフウェーイラインをぶっちぎって相手陣内まで押し込む。

サッカーが武器を持たない戦争だとは言いますけれども、
第一次大戦の映像化とサッカー中継は非常によく似ています。

しかしながら、物陰やジャングルからの不意打ちが主体だった太平洋戦線やベトナム戦争のことを考えると、日本人とかアメリカ人にとってはサッカーはそこまで戦場の姿に似ていないように見えるのかもしれません。

特にアメリカ人にとっては、敵の三倍の物量を投入するのが戦争の基本ですから、互いに同じ人数同士で争うサッカーってのは戦争行為には見えないんじゃないでしょうか?