以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
『二百三高地』の戦いが、10年後の第一次大戦の塹壕戦の前哨戦みたいなものだったといわれるのですが、このマシンガンに向かっての無意味な突撃というのは、見ていて鬱になれてしまうものです。
そういう歴史的な話はしばらくうっちゃいといて、映画表現の話をすると、
塹壕戦の名作といえば、『西部戦線異常なし』と『突撃』ですが、
この二本の先達を見るにつけ、何と何の戦いを表現していたのかにより、画面の左右の振り分けが決定してしまいます。
『西部戦線異状なし』の場合は、敵と味方という単純な振り分けでなく、生きるものと死にゆくものの対比で戦場を描写しています。
『突撃』では、無意味な命令を行う上官およびそれをサポートする社会制度に生身の兵士を対比させて描写しております。
単に敵軍と友軍の対立のみで戦場を描くなら、それは単純な愛国プロパガンダに堕してしまうものでして、まともな知性を持った監督ならそのような作品を作ることに抵抗を感じるものでしょう。
では、『二百三高地』に於いてはどうなっているのかというと、
映画とはこういう構造を持っており、日本軍が二百三高地を陥れることを目的に映画が進んでいきますので、日本軍の侵攻方向は基本的に <−、それに対しロシア軍の防御は−>の方向になされます。
こういう画面左右の戦いというものが映画の基本ですが、如何にこの基本形を崩していくかが映画の個性であり、その理論的根拠がその映画のメッセージといえるものです。
ロシア −> <− 日本の画面構図が崩れるのはどんな時かというと、マシンガンの硝煙の向こうに隠れるはずのロシア人の人間性が垣間見えるときです。
陣地構築の空き時間にコサックダンスを踊っているときに、ロシア人の向きが変わる。
24時間休戦のとき、二軍の兵士が入り乱れ、二軍が戦闘状態に無いことを映像的に示している。
という感じで、敵は人間としてのロシア人ではなく、あくまでも軍隊としてのロシアであると映像が語っております。
しかし、それ以上に、
の基本形が崩れるのは、毎度毎度の突撃シーンです。
最後の二百三高地占領のシーン以外の突撃は、全て無駄死にであるので、ゴールに結びつかないアクションとして、−>方向になされています。
こういう戦争映画は見ていてつらい。
カタルシスが無いですし、また戦況的には、二百三高地に向けて大型砲ぶっ放す以外のやり方は全く膠着した状況を動かさなかったという点で、物語り進展のほとんど無い退屈な映画といえるかもしれません。
事実、私はこの映画を見ていて途中で飽きてしまいました。
まあ、戦場の兵士のご苦労を思えば、2時間半の退屈を我慢することなどなんでもないはずなのですが。
司馬史観的な、二百三高地の戦いは人命の無意味な損傷というテーマを愚直に退屈な映画になることを厭わず描いているというのが、この映画の個性なのでしょうか。
まあ、マシンガンに撃たれるためだけの突撃というものに今現代の人間がどんな意味を見つけていいのか全く不明だけに、こういう映画になってしまうのも仕方の無いことなのかもしれません。
企画の段階で、映画が傑作足りえない宿命を持っていたという点では、『阪急電車』と似ているといえるかもしれません。