以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
私、半年くらい、この映画の進行方向の事を考えているのですが、
1960年代半ばから、日本映画は進行方向が逆になります。
それ以前の日本映画、そして日本以外の国の映画は、すべてー>方向に物語が進行します。
物語が進行するとはどういうことであるかというと、物語の目的及び目的地がー>の向こうにあると設定されており、ー>方向の事象は
ゴールに向けてポジティブな要素とみなされ、<ー方向の事象はネガティブなものとみなされる、ということです。
もっと簡単に言うとどういうことかというと、画面 ー>方向をむいている人は善人であり、<ー方向をむいているのは悪人である。
単純な勧善懲悪の物語だったら、そういうことになります。
尤も、そこまで単純な映画もなかなかなくて、北朝鮮の映画でさえ、善人悪人でそこまで単純に二分割したりはしません。
なぜなら善玉にも心にはやましいところや弱いところがあるものですし、悪党にもそれなりの言い分というものがありますから。
そういう理屈から、悪党がもっともらしいことを行っているときなどは、悪党はー>を向いていたりするものです。
そして善玉は、自分の心の矛盾や弱さを克服することで、より強く正しくなるという成長の過程を経ますのが普通ですから、最終的にはゴールにたどり着くとしましても、途中でいろいろ迂回したり迷ったりするものです。
そういう心理や状況を、画面上にー>と<ーのに方向への動きや向きに委託して表現しているのが映画とかテレビドラマというものです。
単純な理屈ですが、単純な理屈ゆえに、人間の無意識に強く作用し、人を泣かせたり怒らせたりすることが可能です。
舞台演劇とはもともとこういうものでして、左右のどちらかを入口としもう一方を出口とします。
ひとつの演劇で舞台セットを何回か入れ替える場合にはこうなります。
それぞれの場面ごとに、出口入口が入れ替わっていてもいいのかもしれませんが、これらを一貫させておくと、西遊記みたいな長距離移動を行う物語の場合には、説得力が増すように感じられるでしょう。
世界映画史では、すべての場面の入口と出口を統一するという方式は1920年代に普及します。
ちなみに言うと「戦艦ポチョムキン」は1925年の作品ですが、上映時間を一貫した進行方向を定めてはいません。善玉悪玉を動く向きで区別しようという作品ではなく、ユニホームで区別しようという作品であり、そのような観点からこの映画見るとシーラカンスにでも出くわしたような驚きを感じます。
だから『オデッサの階段』のシーン以外は画面に方向がありませんので「紅白おしくらまんじゅう合戦」やってるような映画です。
しかも、善玉と悪玉の進行方向が通常の映画と逆であり、この映画のパロディーシーンを含んだ映画はたくさんありますが、87年の「アンタッチャブル」とは乳母車の動く方向が逆になっています。
いわゆる、映画の基礎が固まる前の映画、もしくはモンタージュの様式以外の点では当時の世界映画の潮流からそうとう遅れたものだったということが分かります。
また、個人というものが存在しない映画であり、その点でも北朝鮮のマスゲーム的で私のような環境で生まれ育った人間には嫌悪感が先行します。まだヒトラーなりナチの高官なりが出てくる「意志の勝利」のほうがはるかに個人が存在する映画です。
映画が舞台演劇と完全に違う点は、映画は、カメラの視点を観客に強要するものであり、いろいろな角度、いろいろな位置から撮影したカットが編集でつながれます。
舞台演劇とは異なり、各場面はカットに分割されます。そしてそれらカットの向きがゴールを向いているか、向いていないかで、ゴール到達に対してポジティブ・ネガティブとの印象を観客にすり込んでいく技法を取り入れるようになったのは1930年代であり、サイレント映画からトーキーに切り替わった頃とほぼ同時期です。
『オズの魔法使い』
over the rainbowを歌うジュディガーランド。虹のむこうは−>の方向にあると設定されているので、ジュディガーランドは
−>の方向を向いて歌う。
1939年の作品。全編を通したカットごとの方向の意味づけが確定したあとの映画であり、今見ても、普通に楽しめる。
では、カットごとの方向の統一が具体的にどのような効果を表しうるかについて具体例を見てみましょう。
50年代にテレビがアメリカ家庭で普及し、それに危機感を感じた映画界が、テレビでは不可能なレベルの大作を製作することで映画館に客をつなぎとめようとした時代の作『クオヴァディス』
冒頭のシーン、ロバートテイラー率いる軍団のローマへの帰還。
画面の進行方向 −−>に沿って画面は一貫して−−>と進みます。
チャリオットに微妙なターンが入り、<−方向に変わったかな、と思わせると、ローマを見渡せる丘に着いていました。
つまり、−>方向の流れに、<−の楔が入る事で、軍団の行軍が終わり、目的地にほぼ着いたことが表現されています。
−>、−−>、−−>、−>同一方向への継続的移動はこのように表現され、
そこに<−の楔が入ることでその継続が断絶したことが表現されます。
典型的な移動の継続とその終了を示す仕組みです。
また試しに、これらカットの方向をジグザグに変換してみると、かなり気持が悪く、船酔いでもしてしまいそうになります。
特にロバートテイラーのカットが無意味にジグザグすると、見ててものすごく気持が悪いです。
画面から全然疾走感、前進感覚が伝わってこず、迷走しているように感じられます。
また、このように奴隷と兵士の方向を逆にしてまとめると
支配階級と非支配階級の反目を表現したかのような階級闘争的な画面に仕上がります。
もしくは、二つの軍団の行軍を交互に映しているように見えるかもしれません。
一つの移動シーンにおいて、移動の方向を固定しておかないと前に進んでいるように見えない、という事は映画の教科書に書かれている程度のことですが、
実は、それだけでなく、全編の2時間弱を通して、この方向はポジティブとネガティブに仕分けられ統一的に利用されています。
このことはほとんどの人が気づいていないですし、映画関係者も声を大にして語ったりはしません。
この画面の流れは、残像として観客の無意識に居座り、画面に映るものの価値判断を送り手側にいいように操作されてしまいかねません。
これが私がここしばらく興味の対象にしている「北枕」とでも言うべき映画のお約束ごとです。
日本映画は、洋画とは逆に<−方向に画面が進みますから
画面上、目的達成へのポジティブな動きが常に<ーと流れているのであり、その方向への動きがポジティブであると、見ている側は無意識領域でにんしきしています。
そして、いわばその残像が画面に重なっていると言えるわけでして、
こちら側に、頭を起こして起き上がるのは、非常に不可のかかる厄介なことであると感じられるでしょう。
それゆえ、こちら側に頭を向けて寝ている状態を、私は着目して映画を見ていたのですが、
どのような場合、この「北枕」で寝ているのかというと、
死んだ人の場合。もしくはもう死んだも同然の人の場合。もしくは命に別状はないけれど、内面的に何かがオフ状態になっている人の場合もあります。
たとえば、心を閉ざしている人、妄想に浸っている人、死んだように深く眠っている人など。
死人の場合はともかく、妄想に浸っている人がシラフに戻ったり、深く眠っている人が覚めたりする場合には、
この「北枕」をうまく解除しなくてはなりません。
そうしないと、「ゾンビ起き」になってしまいます。
「ゾンビ起床」というのも私造用語なのですが、画面の自然な流れに逆らっての起床方向は、ゾンビや怪物映画でよくあるパターンであり、
この方向の起床は、この世ならぬもののこの世への目覚め、もしくはこの夜のもののあの世への目覚めの場合に使われることが極めて多いものです。
代表的な「ゾンビ起床」の例を挙げると、「千と千尋の神隠し」の冒頭のシーンでしょうか。千尋は車のバックシートで「北枕」で魂が抜けたみたいに寝ています。そしてそのまま起き上がるのですが、この「ゾンビ起き」がその後の異界へさまよい込む展開の映像的伏線になっています。
「ゾンビ起床」とはそれほど重大な結果を伴うお約束ごとであり、それと比べると「北枕」そのものは、そこまで重大なものではありません。
単にぐっすりと眠っていた人が、朝が来て起きるという場合、ぐっすり眠っていた状態を「北枕」で示すことも普通に行われています。「北枕」そのものは構わないのですが、それを解除して頭の方向を切り替えなくてはいけません。
一見バカバカしいことに思えるかもしれませんが、実はこの「北枕」解除が映画において見事なまでにお約束事化しているのです。
ねている人を起こしうる要因を示したカットを挿入する。この場合は、朝日が登ったカットを挟みます。
逆に臨終を演出するにはこういうふうに組み合わせます。
このように並べると、太陽が暑かったので熱中症で死んだというような印象を観る側にすり込むことができます。
ちなみに私は、近年のアメリカ映画をほぼ見ておらず、ひと昔ふた昔前の洋画と女子高生の出てくる日本映画ばかり題材に取り上げてこのブログを書いていますが、「北枕」と「ゾンビ起床」について研究した映画は、すべて近年の日本映画、それも宮崎駿のアニメが中心です。
ここまで書いておいて今私が思っていることは私造用語である「北枕」から継続する「ゾンビ起床」の日本映画での映像的意味があまりにも日本人の「北枕」の迷信への忌み畏れと同じに思われるのです。
どうして日本人は北枕を嫌がるのかと言えば、それは本来死体が取るべき寝姿であり、生きているくせに北枕をすれば冥界に目覚めうる、そんなふうに思っているのでしょう。
そして外国人は、北枕を日常においてそのように取り扱ってはいないのですから、もしかすると御約束事の「北枕」とか「ゾンビ起床」とか「北枕」解除は、実は日本のローカルルールに過ぎないのではないか、もしくはここまで「北枕」の取り扱いにこだわっているのは世界で日本だけなのではないか?という気がしています。
さんざ書いてきたことは、映画は登場人物の無意識の部分に対し観客の無意識的共感を共用することで成り立っているものであり、その無意識をどう表現するかについては、ほぼ送り手が意識的に執り行っているものと考えていたのですが、
それでもなおかつ、送り手でさえ半ば無意識的であリ、集団的無意識に依拠した表現が映画の中で日々繰り返されている、もしかするとそうなのかもしれません。
これ、ホントだったら、かなりの大発見です。