映画の見方
目次
Ⅱ 日本映画ガラパゴス 上座下座 ゴジラシリーズと歩んだ日本映画
Ⅲ北枕
Ⅳ 映画の法則① ②同じ内面 呼吸 ③クライマックス
④瞬き
Ⅴ 小説脳内映画化
Ⅵ 絵本絵物語 マンガ マンガは映画とどう違うのか ミノタウロスの皿
Ⅸ 映評天国
Ⅹ 早すぎた後書き
Ⅸ 映評天国
『おもひでぽろぽろ』のラストシーン、高畑勲みずから「ローズ」の歌詞を翻訳し、都はるみに歌ってもらい、それに合わせて画面作っているんですが、
ある意味映画のクライマックスであるにもかかわらず、台詞ひとつもないんですね、台詞ひとつもないのにクライマックス成り立ってるんですわね。
これすごいことですわ。
「ローズ」の歌が始まって20秒くらいこの腹巻ジジイで画面が動きません。
ロマンティックなクライマックス演出しようというときに、出だしでこういう冷水浴びせるようなことやってくれます。
実に小憎らしい。
過剰な共感を排するためにやっているのかもしれませんけれど、私には、だんだん盛り上げていくために、最初はあえてこういうな感じで初めているんだと思います。
「ローズ」の演奏も、1コーラス目はピアノだけ、2コーラス目はストリング、3コーラス目にはキーボードとだんだん音が増えて盛り上がっていきますから、1コーラス目はあえて枯れた要素を画面に挟む必要があったのでしょう。「スイカに塩、汁粉に塩」的なメリハリつけるための技巧だと思います。
微妙なのは、それに続く、後ろ姿のカット。
これが静止画像で数秒間です。
普通、こういうつなぎが来ると、映画そこで終わります。
もしかすると、このカット以降の展開というのは夢物語なのかもしれません。
現実的には、ここで切り替えせずに東京に戻ってしまう人の方がほとんどでしょう?
先ず、窓の景色が映ります。これある意味では今井美樹視点の主観カットです。
それから、今井美樹の横顔を含んだカットに変わります。客観カットです。こうやって、主観と客観を混戦させることで、見る者を登場人物の視点に引き込んでいきます。
画面をモンシロチョウが<ー方向に飛んでいきます。私造用語の「天使」というやつでしてこれは、
画面をポジティブ方向に移動することで、物語をポジティブな方向に導こうとする存在です。
そしてこのモンシロチョウの動きを追うように、今井美樹が立ち上がり、<ーの方向に歩いて途中下車します。
なるほどと思わされるのは、
今井美樹の乗る電車の進行方向がーー、<ーと全然固定されていません。
普通は、目的地への継続した移動は、同一方向で統一するもんですが、ここでは方向が
まちまちなカットがつながれます。
これはどういうことかというと、この電車の移動は、地理的移動を表しているという以上に、今井美樹の心理の葛藤と迷いを表現しているからなのでしょう。
そしてそれゆえ、柳葉敏郎のところに電話して後戻りできない状況が成立してしまうと、彼女の向きと進行方向は<ーに固定されます。
今井美樹のバスと柳葉敏郎の車がすれ違い、それによって二人の方向が入れ替わるのですが、そのカットは、申し訳程度の短い間示されるだけで、すぐに方向転換します。
この瞬間を除いて、電話ボックスのシーン以降、今井美樹の向きと移動方向にはなんの迷いも存在せず、ひたすら<ー方向です。
これは柳葉敏郎が向こうから走ってくるのを待っているシーンですが、ギャラリーの子供たちは、彼の方を見ていますけれど、生理の女の子とその隣の子だけ、こっちの方をむいています。
彼女たち、ほかの子よりも大人ですから、事の成り行きよりも、大人の女の反応の方に興味があるんですね。
たしかに、こんな細かい演出していたら、締切に間に合わせること出来なくなるだろうなと私は思います。
『火垂るの墓』作ったような人物の映画ですから、素直に人を楽しませてくれませんし、何かかしら人をうつにして喜んでいるようなところがこの映画にもあります。
最後のカットですが、二人が車に乗って去っていくのを見送る子供たちは、みんな悲しそうな顔しているのですね。
どうして、二人の行くすえを祝福して楽しそうに笑ってやることができないのか?というと、
この映画の時代設定が83年で、映画の公開が91年と時差があること。
世の中ではバブルが加熱し、サービス業界が無駄な経費を使いまくり、その影で農業はますます斜陽化していったという事実をみんな知っていたということもあるでしょう。
しかしそういう現実的な問題以上に、
思い出とは、記憶とは、後悔の念に裏打ちされたものであり、
後悔がなくなった時点で思い出は色あせた過去のものになってしまうという性質のものです。
だから、子供の頃の後悔をすべて克服して新しい未来に向かって進み始めた主人公にとって、それまでの思い出は完全に過去になってしまい、
それゆえ、小学五年生の姿は、もうこの世にいられない。
それゆえみんな悲しそうな顔をしているのだろうと私は思います。
悲しいから泣いているというより、忘れたくないから泣いている、そういうことってあるでしょう。笑えるようになったら、思い出なんてすぐに色あせてしまいます。
だから『おもひでぽろぽろ』って題名、すごくいいんですよ。
高畑勲、さすがの仏文科出身であります。ちゃんと題名活かした映画作っています。
主人公がアウェーポジションにいるときはどんな状況なのか、ということですが、
逆境にいるか異郷にいるかのどちらかです。
今井美樹にとって山形の田舎は異郷ですから、異郷に乗り込むときは、→向きで入り込むのが普通です。
そしてそこになれると←方向で平常運転が再開される、と。
東京と山形の田舎の間には溝が何本かあり、そこを超えるときに、今井美樹はアウェイのポジショニングになります。
東京から地方都市の落差という溝
地方に住んでいる人と都会人の落差という溝
都市の光景と田舎の田園風景の落差という溝
若い世代と農村しか知らない高齢者の間の溝
都会の生活と田舎の労働生活の間の溝
そういう溝を今井美樹は着実に乗り越えて、田舎の夏休みに入り込んでいくのですが、溝に対面するときに一々−>向きに切り返され、それを乗り越えると又一々−>向きに戻ります。
おそらく、これが最後の溝。田舎の宗教観。農業やっている人たちにとっては太陽や水は本当にありがたいもので、神の力の現れそのものですから、日の出を合掌で迎えます。
以前、上司の部屋に入室する際にはほとんどの場合、アウェイポジションということを書いていますが
人間にとって、神の国は異郷である、さらには上司の部屋みたいなものと言えるのかもしれません。
登場人物が右見ているか左むいているかの違いだけなんですが、製作者の知性というのは、こういうところから見て取れるものです。
PS
この映画は、神の国を物語のテーマに設定していないですから、今井美樹が合掌している方向が−>とネガティブ方向でも問題ありませんが、
もし、この映画がもっと自然崇拝と神の国の方向にテーマを設定していたら、
上司の部屋ではアウェイという法則と、物語の目的地は<ーのむこうという法則ではどちらを優先させるべきなのか?ということですが、
画面の中央をむいてりゃいい、という妥協案もあるし、画面を途中で切り返せばいいという妥協案もあるでしょうけれども、
全体の整合性を考えて、どちらか選択するのが監督の仕事ですし、その選択が映画全体の中で効いているというのが名監督・名編集の仕事です。
絵コンテ書くのは、その為ですし、
宮崎吾朗には、それができてないということです。
だから私みたいな素人の外行からさえ、ど素人呼ばわりされているわけでして。
そんで、電通とか読売みたいな企業が、ヤフーやグーグルに工作しかけてるなと思わせてくれるわけです。
もしジブリのビジネスの規模が『おもひでぽろぽろ』の頃のように、今の五分の一位だったら、こんな下らないネット世論工作なんかしなくても良かったはずなんですけれども。