映画は、普通思われているほど自由な表現手段ではないということですが、
ボクシングをはじめとした格闘技の映画は興味深い問題を抱えています。
以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
日本映画の進行方向<−−に、順ずる形で主人公を画面に配すると、
右利きのボクサーの場合、構えの関係上、背中ばかりが映ることになります。
あしたのジョーの場合は、ノーガードですから、<−−の向きで立っていても、あんまり関係ないのですが、
実写でボクシング映画を撮るとなると、小難しい問題が出てくるわけです。
市原隼人主役の「ボックス」ですが、主人公であるにもかかわらず、−−>のポジションが定位置です。
市原隼人は天才の役割であり、それを凡人の高良健吾が見つめ、その視線に観客が同調するという構造になっていますから、高良健吾のポジションは<−−が定位置です。
そして、ボクシング映画の宿命として、強い方の動きを華麗に映す為に
−−>に配置する必然があります。
その点でも、天才ボクサーの市原隼人を−−>側に配置する方針に適っています。
「神様のパズル」のところで既に書いていますが、
天才は天才である故に一般人からは理解されないという法則があります。だから一般人の観察者を傍らに配置し、その視点で物語を進めていくのですが、
非常に興味深い点は、天才ボクサーが試合に破れ、挫折し、自暴自棄になる場面では、画面の<−−側にポジションが変わります。
一般人には天才が天才である時には理解できなくて、天才が挫折した時の悲しみには共感が出来るという事です。
そして、挫折している時には、天才も一般人の辛さがすんなりと理解できるのです。高良健吾に試合で負けた後は、市原隼人ものすごく素直になります。
この映画の面白いところは、
普通は、主人公が順調である時<−−であり、逆境に立つ時には−−>向きなのですが、
この映画では、順調である時−−>
逆境に立つ時<−−
ときれいに逆になっています。
一般人は、天才が逆境にいるときにしか共感できない、そういう哲学がこの画面配置にはあるのですね。
また、谷村美月が「おにいちゃんのハナビ」同様物語の中盤で死んでしまいます。
あっちの映画と違って、死んでからの存在感はそうとうに薄いですが、
彼女の遺影は、やはり物語の進行方向<−−を見守っています。
この映画の目的は、なんなのかというと、
この悲しげな市原隼人の目、そして遺影の谷村美月の目が見ている者は何なのかというと、ボクシング映画のくせに勝利を目標としていないのです。
これら視線の先にあるのは、しっかりした人間関係なのですね。
その点が物足りないというか、そういう目的の映画ならすっきりとまとまるだろうというか、こぎれいにまとまりすぎてつまらんだろうという気がして、よくできてはいるんですが何か物足りない映画ではあります。