「おにいちゃんのハナビ」夜話5

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。






映画って、その賞賛はことごとく監督と俳優に与えられていないでしょうか?
それ以外のスタッフがなにやっているのか分りにくいから仕方がないのでしょうけれども、


「おかあさん、華って治るんだよね?」
「治るわよ」


高良健吾の目の動きから、宮崎美子が本当のことを言っていないと、彼が見抜いたことが分る。

しかし、この二人がどういう親子かに帰せられる問題なのですが、人の嘘を見抜くときに、こういう目の動かし方をするもんなのでしょうか?


去っていく高良健吾を見送る宮崎美子

非常に印象深いカットなのですが、正直言って、宮崎美子の演技が何を表現しているのかが、よく分からない。

そしてよく分からないゆえに、何度も何度も考えることになるのですね。

そして、演技の意味は、役者がその全てを決定しているわけではなく、画面の流れ繫ぎや照明撮影との兼ね合いで完成するものですから、

宮崎美子の顔だけ見てても、よく分からないのですわ、正直。

ただ確実にいえることは、宮崎美子のバックが赤色で、高良健吾の進行方向は緑色に満ち満ちています。
赤色と緑色は補色の関係にあり、非常に強いコントラストをなしています。


スーパーを出た後のカットでは、高良健吾が上から撮られています。なんでだろう?とか、それを見て自分はどう感じているのだろう?とか考えてみるのですが、

高いところから見下ろされるのは、彼が子供だから、体は大きいけれど、心理的にはまだ子供だから、という連想が働きました。
高良健吾は、子供だから、自分の中の悲しみに閉じこもっていればいいのかもしれないけれど、宮崎美子は立場上それが出来ないのでしょう。
だから、治る訳ないけど、治るって言っちゃうんでしょう。

物悲しい音楽の中緑色の方に歩いていく高良健吾には、悲しみがあるだけなのでしょうが、

宮崎美子には、それ以上のものがある、と映像は表現しているのですね、
自分が感じ取ったものは、女のしつこさ、自分の子供の命への血も滴らんばかりの執念、そんなところでしょうか。

そして、その宮崎美子の情念と言うのは、心理の深いところでありすぎるゆえに、表面上の演技で表現できるものではないのですね。
画面上の構成や色彩で表現するしかないわけで、むしろ反町隆志的なダイコン演技をされると、その映像の演技力とかち合ってしまうことになるわけです。

宮崎美子のこのときの演技、何かよくわかんない、それ故、いい効果出しているんですよ。



その女の執念を赤色で表現する事についてですが、これに続く宮崎美子のシーンでは、


サンタの格好でケーキ売っています。サンタの赤色で、前の赤色を受けているわけですが、
その歳でそんな事やったら普通は辛いだろと思うのが当然なのですが、やっている人が宮崎美子で明るいですから、あまり気になりません。
でも、本当は、娘の医療費捻出する為に、こんな事までやっているっていう描写なですよね。
それでも、あんまりそっちの辛さを強調せずさらりと流しています。

父親の大杉漣のほうも、おそらく医療費を稼ぐ為に寝る時間を惜しんで働いていますが、

両親の方は二人とも、辛いとか一言も言いません、
どうして、谷村美月が、自己憐憫のかけらも見せずに、ただへらへら笑っているだけなのに、物語の中ではリアリティーが感じられるのかというのは、この辺に鍵があるのですね。
彼女の両親も、自分で自分のことを辛いとか一言も言わないんですから、そういう家庭なら、こういう娘がいても不思議ないな、みたいに思っちゃうんですよ。

でも、そういう家庭だと、一人ぐらい、大声で辛い辛いっていう人が反動で出てくるもので、それが高良健吾なのですね。