以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
高良健吾と谷村美月の間で、「大事な台詞でも、さらっとすませよう」という取り決めがあったそうですが、
この映画自体が、そういう映画で、伏線や説明をさらっと済ませています。
ただ、観客に与えるべき情報は全部伝えていますから、それらの控えめな情報が、ある意味サブリミナル的に観客に伝わっており、それが「おにいちゃんのハナビ」の泣ける理由かなと自分は思っています。
具体的に、どの台詞がさらっと済まされた大事なものなのか?ということですが、
自分的には、谷村美月が「お兄ちゃんのイメージはオレンジ色」というところのことではなかろうか、と思います。
新潟の町でおにいちゃんに見立ててあげたTシャツ、死ぬ間際にお見舞いの花ビラで作った花火の貼り絵、そして最後に上がる花火、全部オレンジ色です。
もし、この台詞がくどい印象を与えると、ものすごく説明過剰でしつこいと感じるはずなのですね。
ただ、今回、自分が書きたいのはその事ではなく、
おにいちゃんのペースで会話が進んでいたのですが、「ネガティーブ」といって谷村美月が高良健吾の肩をパシンとたたきます。
それにあわせて画面は後姿から前に切り替わります。
画面は<−−の方向に進むのが基本ですから、<−−側の人は、その場面のイニシアチブを持っているのが普通です。
つまり、おにいちゃんから妹に会話のイニシアチブが移行したことを画面で表現しているのですが、
その画面の切り替えに何らかの必然性が無いと、見ているほうは、胡散臭いと感じたり、もしくは素直にノルことが出来ません。
おにいちゃんの肩をたたいたから画面が切り替わったのではなくて、画面を切り替える為に、おにいちゃんの肩をたたかせているわけです。
こうして映画の画面の流れはスムーズなものとなり、その流れに沿って観客の心理は、喜怒哀楽を感じるように仕向けられていきます。
夕食の時に父親が帰ってきて、それでなんか気まずいんだけれども、敵意とかを示したいわけじゃなくて、親密さを表したいんだけど、不器用でそれが出来ない、という場面ですが、
画面は<−−に流れるのが基本ですから、高良健吾ががけっぷちにいるような居場所の無さが、ヒシヒシと伝わってきます。これ、構図を左右反転させると、かなり印象変わってくるはずですよ。
高良健吾は割にユーモラスな演技をしています。もしかすると、がけっぷちにいるような居場所のなさというのは、演技で表現しているのではなく、画面の構図がメッセージとして伝えているだけなのかもしれません。
映画とは、構図やカットの繫ぎで、意味が生じてしまうものですから、演技であまりガツガツ表現しつくさない方がよかったりします。
なんで反町隆志がダイコンかというと、そういう映画のルール理解していないからなのでしょう。全部自分の演技で表現しようとするから、見ていて痛々しい、そういうことだと自分は思います。