世界的に、この十年間で映画の製作本数は二倍くらいに増えているそうです。
映画館で上映される映画は新作のみですが、私たちが映画を見るスタイルはレンタルだとかネットとかテレビの方が多いわけでして、
私たちの見る映画の内の数分の一だけが劇場での新作映画なわけです。
そして、毎年毎年映画は製作されそれが累積されて行き、劇場公開新作映画はそれら累積された映画との間で私たちの興味関心をより強く引くべくツタヤやネット上との競争にさらされることになります。別に私たちは今年の映画だろうと去年の映画だろうと40年前の映画だろうと関係ありません。面白ければいいわけですから。
そして、この競争は毎年毎年映画が蓄積されていくのですから新作映画にとって状況は毎年毎年不利になってゆきます。
最近、大向こう狙いを放棄したアメリカ映画が増えてきたように感じます。
日本映画に関しては、映画産業が崩壊した70年代以降、ちんまりした映画が多数派ですが、
世界市場を牛耳ってきたアメリカ映画もそうなってきたのでしょうか。興行的大成功を放棄した代わりに、私的な文学性みたいなものを大事に腕に抱えているとでも言ったらいいでしょうか。
たぶんおそらく、フィルムからデジタルに切り替わったことで制作費が格安になり、簡単に映画が作れるようになったからでしょう。少々アングラな内容でも製作されるようになってきたのでしょう。
そしてその反面、誰も見ない映画として埋もれていくのでしょうが。
クロエモレッツはこの世代では世界一のスターのはずなのですが、それでも誰も知らないような作品にいっぱい出ています。
『HICK ルリ13歳の旅』ですが、私小説的にちんまりとした物語で、やはりというか崩壊家庭からの脱出を描いています。
鏡に向かってぶつぶつ独り言しながら、銃の練習。
これ、もちろん『タクシー・ドライバー』へのオマージュなんですが、『キックアス』でもアーロン・ジョンソンが似たようなことをやっていました。
つまり、ヒーローにあこがれる凡人が現実と夢を取り違える瞬間の描写なのですが、
ここでは西部劇のヒーローに憧れて、西部へ旅立つのはクロエモレッツの方。
彼女が自分の姿をなぞらえようとしたヒーローは、マカロニウエスタンのイーストウッド。
『ダーティー・ハリー』の台詞ぶつぶつ言いながら鏡の前で銃の練習。
そしてどうしても旅立ちたくなって、とりあえずラスベガスに向けてヒッチハイクの旅を始めるのですが、
この映画、不評だったそうです。
アメリカを探しに旅に出たはずなのに、この旅で主人公が出会ったのはわずかに四人。
話に広がりがありませんし、アメリカの広さも実感できません。
この映画、原作の小説があるそうで、その小説だと主人公つまりクロエがレイプされるはずなのですが、映画ではそういう危ない描写はしていません。
その代りに、彼女がモーテルに監禁され気が付いたら髪の毛の色が金髪から黒髪に染められていたという描写になっています。
13歳の女の子がレイプされるシーンを描いて社会から叩かれてもつまんないですから、こういう抽象的な表現を選んだのは妥当なのでしょうが、でもこの変態性って後からじわじわ来る類のものです。
クロエモレッツって明るくて健康的なイメージの割には、大抵崩壊家庭の女の子の役ばかりですね。
映画の冒頭で彼女が描く自分のおうち。
そして、彼女が求めた西部への冒険は、
彼女を監禁した変態を撃ち殺すことでおしまいとなります。図らずも人を殺してしまい、泣き出してしまう主人公。
「冒険は終わりました、おうちに帰る時間です」と言わんばかりに冒頭の絵が画面に映る。
そして、これで家に戻ったら、『オズの魔法使い』と同じ結末じゃないですか。
でも彼女、家に戻るバスを途中下車して西へと向かうバスに乗り換えます。
これがこの映画のエンディングなんですが、このイラスト、どう見ても『オズの魔法使い』の黄色いレンガの道です。
ついでに、これはこのブログの中心になる話ですが
主人公が運命に逆らうことを表す画面は、大抵進行方向と逆向きの疾走。御約束事です。