『卒業』 1968年 主演ダスティン・ホフマン
この人、駆け落ちしたと思ってたら、
『真夜中のカー・ボーイ』 1969年 主演ダスティン・ホフマン
結局、女の子とうまく行かなくて、ニューヨークでポン引きに落ちぶれたの?
悲惨よね。
『ゴッド・ファーザー Ⅱ』 1974年 主演アル・パチーノ
マフィア稼業もいろいろ大変なんだろうけどさ、
カジノ企業稼業に失敗して、銀行強盗?
ていうか、コルレオーネ次男って生きてたの?
ていうか、意外に次男ハードボイルドだよね。
こんな風に素で思うと、世の中ではバカとみなされます。
役者は劇中で虚構を演じているのであり、その役柄と彼本人は全くの別ものである、
そのことを取り違えた輩が、訳のわからないストーカー事件を起こしたりするのですが、
でも、本当のことを言うと、私たちはみんなその手のバカと五十歩百歩のようです。
『ウェスタン』 1968年 セルジオ・レオーネ監督作
ジョン・フォードの作品でヒーローを演じることの多かったヘンリー・フォンダは、この作品で悪役のオファーが来たときに、承諾をためらったそうです。
それでも、思い直して、衣装を自分で工夫し、カラーコンタクトを入れて彼なりにノリノリの役作りをして、監督のもとに行くと、
「いや、いつものまんまでいいですから」と、過剰な役作りを却下されたとのこと。
ヘンリー・フォンダにしてみれば、「ヒーローの役しかやりたくない、悪役なんかいや」ってのは単なるかっこつけが理由なのではなく、
いったん悪役のイメージが付いてしまうと、今後の役のオファーが悪役に限られてしまい、そのギャラは脇役レベルに落とされてしまうだろうという思いがあったのでしょう。
実のところ私たちは、役者と彼らが演じる役を完全に切り離してみることができていません。
「このひとって、かっこいい保安官だと思ってたのに裏では悪いこといっぱいやってんだよね」
そんな風に天然に思い込んで映画楽しめる人は、むしろ映画の楽しみ方を知っている人で、
実のところ、そんな風に思い込むのはばかばかしすぎると思ってるほとんどの人たちにしたところで、
駆け落ちに成功したはずの男が次の作品でポン引きやっているという事実に三割増しのみじめさを感じたり、
マフィアのボスがクソ間抜けな銀行強盗やってることに世の中の一筋縄でいかないところを感じたり、
ヒーローの保安官が悪役演じることに、アメリカの建前の嘘くささを感じたりするものですし、
それらが、製作側から映画表現の一手段として考慮されたうえのものであると、思うにつけて、
私たちって、じつのところ、みんな馬鹿なんだ、役と役者の区別ついていないんだというか、
本当のところ、映画を完全な作り事として見ることができないんだ、
役者の存在感をリアルな人間として感じているんだ、ということに思い当たります。
逆に、役と役者の区別がかっきりつくような映画ですと、
何も面白くないんじゃないでしょうか?