役者のキャラクターって、このような同心円構造をしていると私は考えます。
個人 自分が思うところの本当の自分
中心にあるのが、これ。
一人部屋にこもってポエム書いてるときどんなキャラなのか。 一人でオナラした時に、自分でどういうリアクションとるのか。
そういうものもろの思考パターン、行動パターンを 個人の核という事にしておきましょう。
社会的キャラ 他人との付き合いの中での自分
他の人と一緒にいるときは、イタい独言いったりはしませんし
オナラもできるだけ我慢しようとしますし、
フリチンで歩いたりもしないものです。
誰でも自分一人でいるときと、他の人の前にいるときでは、微妙にキャラが変わりますし
家族といるとき、親しい友達といるとき、あまり親しくない友達も含めたクラスにいるとき、
社会で当り障りなくふるまおうとするとき、八百屋の店先で威勢よく物を売ろうとするとき、
私たちは、それぞれの場合で、それぞれのキャラを微調節します。
もっとも、これらの微調節されたキャラ群の間に、大き過ぎる断層があったりすると、多重人格だと思われたり、信用のおけない人間だと非難される可能性があります。
そうであるとはして、一緒にいる相手や場によって、私たちは、一番ふさわしいキャラを選択し、その指針に従って発言し行動しようするのが当たり前です。
芸能人キャラ
社会的キャラの一つと言えるかもしれません。
ただしかし、芸能人は、圧倒的多数の一般人とテレビや映画を通して付き合っている訳で、
大衆のほとんどは、「阿部寛はこんなキャラだ。こんな人だ」という思い込みをテレビでみる彼の姿から刷り込まれているものです。
こうなると、阿部寛が一人で部屋にこもっているときどんな人なのかというのは、社会上ではほとんど問題にされることはなく、阿部寛の社会的価値はテレビやスクリーン上でどうなのかということで決定されているように思えてしまいます。
そして、マスメディアで阿部寛と一方的なコミュニケーションをとる大勢の人は、
そのキャラに憧れ自己同一視したり、笑ったり元気をもらったりしています。
これは、役者が大衆の希望に合わせ、自分の虚像を創造しているといっていい訳で、
阿部寛は典型的な高倉健型の、どんな役を演じても同じに見えるタイプの役者です。彼の出演作品を論じるときに、誰も彼の役名を語ろうとはしません。
そして、そういう役者は、大衆が求める虚像を演じているだけではなく、自分がこうありたいと思う虚像を大衆が求める虚像に一致させ、それを演じることで高い社会的価値となっているのであり、
その点から、これら「大根」とみなされる役者は、もっと尊敬されるべきであると、私は考えます。
役者のみでなく、ロックスター、それにスポーツ選手も似たようなものかもしれません。
社会が求める虚像を演じることと、自分がこうありたいと思う姿を演じることがうまく一致した人のことと定義していいのかもしれません。
そして阿部寛ですが、インタビューに答えているときと演技しているときでは、キャラクターが多少異なります。
恐らくインタビューの時の方が、日常生活の彼に近いのでしょうけれども、
それでもマスコミに晒すキャラクターなのですから、社会的キャラクターの一つのようなものなのでしょう。
また、スターとしての虚像に自分の実生活を一致させようとしておかしくなってしまう人もいます。
そういう不健全な人たちと比べると、演技していないときの阿部寛の淡々とした感じはより好ましく思われます。
演技派
阿部寛や高倉健が、どの作品でも役名で語られることがほとんどないのとは反対に、
どの作品でも役名でしか語られることのない役者も大勢います。
私たちは、二時間弱の映画を見るとき、あまり多すぎる情報を一度に消化することはできません。
だから、目立つ部分と目立たない部分はちゃんとメリハリきかせてほしいと思うわけです。
多すぎる登場人物にいちいち共感していると、肝心の物語に共感できなくなってしまいますので、
二時間弱のドラマですと、4人程度の人物の視点を通して物語を見ることが基本パターンとなります。
そして主要4人以外のキャラクターには、あまり出しゃばってほしくないのですね。
だから、助演賞にも引っかからないだろう脇役を演じる人たちの演技は、
いかにも、こういう立場の人たちがやりそうなことをリアルになぞることが主体です。
いかにもこういう立場の人が…という役ですから、個性主張することって意味がありません。
いかにも…の人をリアルになぞることのみが望まれていますので、こういう役を演じるには、ちゃんとそういう人たちを観察しなくてはなりません。
演技派と呼ばれる人たちは、多かれ少なかれ、こんな風に役者の経歴を積み重ねていった人が多いので、いろんな演技パターンの引き出しの多い人たちです。
この引き出しが多いと、即名優なのかというと、わたしは、それは、違うような気がします。
そして、本当のことを言いますと、観察や精進で他人のことを理解できるのはしょせん制限された範囲内にすぎません。
結局何をやったところで、その人の素とか地とかに行きあたってしまいます。
観察と精進で演技を磨いてきた人が、主役になった時、
大したことができなかった、というのは、映画みてるとあります。
そして、最終的には、私たちが思い込んでいる、自我って、何なんでしょう。
自分はこんな人間だと規定している思い込みってそんなに強固なものなのでしょうか?
自分が一人で部屋でポエム書いているときの姿って、本当の自分なのでしょうか?
匿名でブログを書くのが常態になってしまうと、
部屋で一人でポエムを書くのが「本当の自分の姿だ」とは信じられないのが実感です。
私たちは夢を見ているとき、その中で日常現実ではありえないはずのことをやったり言ったりもします。
それに、夢には自分以外の人が出てきて、あたかも彼ら自身の意志に基づて動いているように思えてしまうものです。
演技派と呼ばれる人たちは他人の観察と共感の中から演技のレパートリーを増やしているのだとは思うのですが、それは、自分の中のよくわからない部分を突き詰めることと大差のないことなのかもしれません。
能年玲奈の『あまちゃん』でのキャラの作り方を見ますと、
『あまちゃん』の為に作ったというよりかは、
あれは、彼女がこう成りたいと思っていた理想の姿であり、彼女が内面でしばらく温めていたもの、なのではないだろうか?そんな気がします。
『グッモーエヴィアン』
ほとんど天野アキと同じアホキャラです。
ただ、違うところは、こちらの役にはアホのキャラの後ろの悲しみの裏付けがあります。
わたしたちは、
笑顔の後ろに押し殺された涙みることをリアルだと感じますし、
ぎすぎすした態度の裏に抑圧された優しさを見ることをリアルだと感じます。
二時間のドラマや映画では、この仮面の後ろの姿をスパっと切り取って見せる手腕が評価されるのですが、
『あまちゃん』くらいに長いドラマになると、天野アキのアホキャラの背後に何か悲しみがあったのだろうか?と時々考え込んでしまうのですね。
結局のところ、震災復興支援のドラマなのですから、明るいキャラが必要だった。
天野アキのアホキャラの背後にあるリアルな悲しみとは、現実の社会の地震とか津浪だったりするのでしょう。
アホの演技の中に一瞬で入り込む悲しみの演技。
この映画観ていると、能年玲奈のブレイクは時間の問題だった、そう確信できます。
映画全体は、割とどうでもいい。
『カラスの親指』
カラス=黒い=玄人 ということで、プロの詐欺師の意味です。
この映画が公開されたときには『あまちゃん』の撮影始まっていましたから、
プロとアマの対比、
本人も周囲の人も奇遇に思っていたんじゃないでしょうか。
ひったくりやってる女の子の役で、
わりにぎすぎすした態度で話します。
それでも、捨て猫を抱きかかえるシーンから、
ぎすぎすした態度の裏の抑圧されていた優しさが、殻を破った顔をのぞかせ始めます。
殻を破った優しげで明るい感じは、天野アキちゃんそのものとは言えませんけれど、大体通ずる演技です。