画面の進行方向を →とし、その行きつく果てに物語の目的があると規定する。
それが通常のアメリカ映画の画面の構成法でして、
それを徹底的に行っているのがスピルバーグやリドリースコットなのですが、
この二人に共通するのは絵コンテをとても重視し、カメラを動かす前に、あらかた画面の向きとその意味を考えつくしてしまうという点。
私がこのブログで書いている「映画のお約束事」で、スピルバーグとリドリースコットの映画はほとんど説明できてしまいます。
普通の映像作家が無意識的に曖昧に行っていることを、この二人は非常に自覚的に行っているのであって、
その意味を一一読み取ってやると、一見わかりにくい映画のテーマが簡単に見て取れます。
映画はどんなように楽しんでも、それは見る人の勝手、
どんな風に解釈しても、見る人の権利
それはそうでしょうけれども、
じゃあ、作る側は、どんな風に見えても構わないと思って作っているかというと、そんなことはあり得ない訳で、
我の強い才気あふれる連中が集まり、ああでもないこうでもないと争う中で、リーダーが一定のコンセンサスを見つけながらいざこざをまとめながら映画が出来上がっていくのですから、
作っている側には、こんな風に解釈されたいし、こんな風に楽しまれたいというものが確実にあるはずです。
そういうスタンダードになる解釈がないとしたら、それは映画製作中に組織が空中分解したとみなすべきです。
ただしかし、映画に限らず、私たちの日常生活でも、自分の言ったことの意味が本来の意図と別の形で受け止められた、なんてことは腐るほどありますし、
寧ろ正しく理解されることの方が少ないように思います。
だから、映画が製作した人たちの意図通りに受け止められるべきなのか、というと、それは割とどうでもいいことなのかもしれません。
それでも、これだけははっきり言えると思うのですが、作った人の意図を正確に読み取ろうと努力すること、そして作った人を正確に理解しようとすることは、コミュニケーションの在り方としてはまっとうな在り方でしょう。
映画が単に一方通行の娯楽ではなく、与える側と受け取る側でのコミュニケーションであるとするなら、当然そうなります。
生きるために必要なもの幾つか
引っ越しや家出の経験のある人には、この映画の序盤のシーンは思い当たることが多いと思います。
物語の目的が → の向こうにあるのですから、その方向に向かって主人公たちは進むのが基本です。
そして、この映画の序盤では、目的地への旅に必要でないとみなされたもの、つまり生きるために必要ではないとみなされたものはごみ箱にでも捨てられるかのごとく、画面の←方向に消えていきます。
ルイーズの退社シーン。
つまらない日常をごみ箱に捨てて、バカンスに赴くのですが、
会社のドアを出たときが退社の瞬間なのか、それとも家に着いた時が退社の瞬間なのか、それとも家に帰る車に乗った時が退社の瞬間なのか、
車に乗るまでは ← です。車のエンジンをかけて、それから数メートル進んで、→にカーブします。
映画の画面の文法的には、このカーブした瞬間、ルイーズは会社と切れたことになります。もう彼女にとって職場は過去のものでしかありません。
また 映画のBGMも相当にサブリミナル的なものであり、
BGMがどの間合いで入り、どの間合いで切れるかについて意識して映画を見ている人はほとんどいません。
ちなみに、ルイーズが歩道と車道の縁石に足をかけたとき、『ワイルドナイト』のイントロが始まります。
BGM的には、歩道と車道の縁石がルイーズの日常と非日常の境界線と言えるのでしょう。
そして、車がカーブし次のカットにつながる間際に歌が始まります。
画面はより華のあるテルマの方につながります。
そうすると音楽だけでなく、画面も歌い始める、ように感じられるのですよね。
画面の方向転換、BGM、役者の動き等を一度に変化させると、余りにもくどいので、少しずつずらすのが映画のセオリーです。
そうすることで画面のつながりがよくなると感じられるものです。
生きるために必要もの幾つかをトランクに詰め込んでいくのですが、ルイーズの方は几帳面で合理的な選択がなされていますが、
テルマの方は、ものすごくだらしない。タンスの引き出しごと下着をどかどか詰め込んだりしますが、物語を進めるうえで不可欠な銃をトランクに詰めたのもテルマの方。
必要なものを →方向に詰めて、要らないものを←方向に捨てていきます。
留守番電話でしかつながることのできないもどかしい男女関係もごみ箱の中へ。
めかしこんでカウボーイスーツを着て鏡の前に立つ。
鏡像は本来虚像なのですが、西部劇のヒーローみたいにめかしこんだ虚像が、日常のルイーズの姿と取って代わったのであり、
それまでの自分の姿はごみ箱の中へ。
画面は → ポジティブ
← ネガティブ の二方向を使うことで
テルマ&ルイーズが生きるために必要としていたもの、ごみ箱に捨てたものを上手に表現しています。
物語を日常生活感覚で見ると、テルマは夫をごみ箱に捨てたわけではないのですが、
映画が示した意図に沿って物語に着目するなら、テルマの夫も←方向に出勤することで まんまとごみ箱に捨てられました。
そして、物語の進行、旅の継続とともに二人はまだまだ多くのものを捨てていきます。
最後の崖に飛び込むシーンで、生きるために本当に必要なものとしてテルマとルイーズの手がしっかりと握っていたものは何だったのか?ということですが、
よくできた映画だと言わざるを得ません。