映画の法則⑤試論  誰目線

映画は、カメラの位置を操作することにより、誰の目線で物語を見ているのかを強制させられているのですが、
では、
ジョーズ』のサメ目線の謎
別に、あれ見て、私たち、サメになったつもりになってるってことないですしね。
ただカメラの目線が、サメの存在を暗示している、もちろんBGMが人の不快感と恐怖心を同時に煽りますんで、あのPOVがサメの接近を観客に感じさせるというのはありますけれども、
ほかの場面では、その他の人物の目線のカメラだったりして、コロコロ変わるわけです。

『エスター』にしても、犯行の下手人の目線のカメラが多用されているわけですが、少女エスターが絶対そんなところには存在し得ないにもかかわらず、そのようなカメラ目線が画面に表現されている、
これによって、エスターの超絶的な能力を我々は感じるのですが、
客観目線のカメラやその他の人物の目線とごちゃごちゃで観客に提示されているのですが、そのことに対して、観客は何もおかしいとは思わないのでしょうか?
いろいろ考えてみたいと思う次第です。



これはサメ目線です。



ちなみに、こちらはブラフです。さすがにここまで浅いところにはサメは来ることはできません。
さりげなくサメの主観目線から、サメの動きの恐怖を模した水面スレスレの客観カメラに移行し、その後普通の第三者目線に移行しています。

私たち観客はサメから助かる側に共感してみているはずなのに、人間を襲うサメ側の目線を強制されているということは、サメにも共感でもしているのでしょうか?


このことを考えるにあたり、非常に興味深い映画がありまして、
『湖中の女』

1947年公開の映画ですが、特筆すべきことは、全てのシーンが主人公目線のPOV、謂わば主人公の姿が手先しか映らない私たちの日常と同じ光景が映画の画面になるのですが、こんな映画他にないんですけれども、私にとっては非常に懐かしい感じがあります。

これ面白いのかどうなのか?
これでは、PCのアドヴェンチャーゲームの画面ではないか。この『湖中の女』も探偵を主人公にした犯人探しの物語なのですが、
PCでアドヴェンチャーゲームが考案される30年も40年も先に、ほとんど同じことを映画という遥かにユーザーの自由度の低いメディアでやっていたわけです。

アドヴェンチャーゲームが面白い、いや、以前の私に面白いと感じられたのは、自分が物語の中で自由に振る舞えるという点で、それ以外の点では推理小説よりも面白かったのだろうか?と今になると思うのですが、

とりあえず、この映画では主人公の目線を私たちは与えられてはしまっているのですけれども、画面の中を右に行くか左に行くかの選択もできません。かろうじて許されている自由は視線移動の自由だけでしょうか?そしてそのささやかな自由がこの映画の厄介な問題点なのです。


一見リアルなRPG画面のようなものでして、関係者容疑者の話を聞く以外に、情報収集の方法としては画面の中から任意のものを見つめることができ、それが推理の材料になるはずで、それ故になるべく画面全体がはっきり映るようにパンフォーカス風なんですが、
それだと、逆にどこにも私たちの視線が誘導されません。
また、私たちが自由に画面の任意のところに視線を移したとすると、本来は画面上の人物たちがその視線に対して何らかのリアクションをするべきなのですが、それがないのが見ていてものすごく不自然。
自分が被写体の役者たちをガン見していることに対して、彼らの怪訝な様子もこちらの視線を遮る仕草も見られない。ただ私たちの視線はちりかホコリのように彼らの周囲を飛び回っている。
PCのアドヴェンチャーゲームは静止画像の人物たちを見つめていただけですから気にならなかったのですが、実写でこれやられると、相当に違和感。

私たちは、視線を動かすときに、目だけ動かす場合と首を動かす場合の両方があります。首を動かす、体を動かす場合の視線の移動は、カメラを振り回すことで表現されていますが、普通私たちは、目だけちょこっと動かすことで視線を移動させているでしょう、んで、そのちょこっとした視線の動きが
カメラには表現できない。
目をキョロキョロさせることのできない世界、コチコチに固まった視線の世界です。

映される役者の方でも、じっとカメラ目線で演技を続けているわけでして、彼らの視線がカメラ目線に固定されているというだけで、彼らの存在がものすごく平坦なものに感じられてしまいますし、
彼らを撮る構図も胸から上ばかりのものでして、体全身を使った演技ができない。ほとんどニュースキャスターの喋る時と同じ条件で、ニュースキャスターの原稿を読む時の顔の表情の作り方というのは一種独特なものなんですが、あれら顔芸というのは、全身のボディーランゲージを封じられた際にどうにかして感情を表現しようとしている故の奇妙な仕草だったのだなと理解が行きました。
また、この映画ではほとんどのシーンで役者がカメラ相手に芝居をしているだけで、役者同士が芝居していないです。
ほんと、強烈な違和感のある映画です。



この違和感を解消するには、カメラの動かすことで主人公の視線移動を装ったながれを作り出し、それに対して役者にリアクションさせるべきなんでしょうが、
そうすると、何ゆえに主人公の完全POV映画なのか分からなくなりますから、一応当初の目論見通りに映画完成させたのでしょう。

原作者のレイモンドチャンドラーはハードボイルドの代表作家ですが、彼は推理小説書いていたわけではなくて、ある種の風俗小説の書き手だったんですから、こんな推理アドヴェンチャーゲーム仕立ての映画の題材にはむいていないはずなんですけれども、それにしても、私が上述してきたような点にきょうみをもたないなら、30分以上集中していられない映画だったりします。


車のシーンのまどろっこしさ、いちいちドアを開けてキーを回すところまでやって見せてくれるのだが、もっと柔軟にできなかったものだろうか?



もう一つ、
映画の中でまで自分でいることのつらさ

一応、この映画の主人公を演じたロバート・モンゴメリーは、映画の冒頭で挨拶しますし、劇中では何度か鏡に映る姿として登場します。
しかし、だからといって、基本的に手や足先しか映らない主人公の姿にロバート・モンゴメリーの姿を重ねることができるだろうか?というと、それは難しい。
じゃあ、だとすると、私たち自身が主人公になりきっているのか、私たちの姿が物語の舞台の中に直にリンクしているのかというと、そんなことはない。

私自身は、銃向けられればビビりますし、殴られれば気失いますし、こんなフィリップマーロウみたいなタフガイではないんです。それでも、視線だけ主人公のもの与えられてもなあ。

やはり、主人公という依り代を与えられて、その人物に共感することで物語の中に入り込んでいくのが普通だというか、歴史的に長らく鍛えられてきた手法のような気がします。

主人公というのは共感の依り代であるのみならず、私たち観客の理想であったり妄想の的だったりするので、かっこよくなくてはダメなんですよ。私たちがそのまんま映画のスクリーンに映りたいわけじゃない。



もうひとつ思うことは、
鳥が地面で首を振るのは常に視界情報を更新するためだそうで、地面に降りて降りているときは飛んでいる時のように視界情報が狭まるので、しょっちゅう首を振って広い視野のデータを補う必要がある。
これって、以前よく言われた中田英寿のフィールド上での首振りと同じなんでしょう。彼はああやって周りの選手がどの位置にいるか、そしてどの位置に移動しているのか、という情報から15秒後にはどうなっているのかの空間イメージを常に脳裡に描いていたそうです。
優れたミッドフィールダーは鳥の視点を持っていると言われるのですが、
それでも、普通のレベルの人間でも、日常生活では自分の背中の後ろや頭上の視界から外れた部分についてそれなりにイメージを持ってはいないですか?
1分前に頭を振ってそのデータを仕入れたとしたなら、特に新しい人や物体がやってこない限りさっきのままが続いているということになります。
だから、私が言いたいことは、POVの映画が私たちにリアルな資格情報を提供していると思い込みがちですが、私たちはみんな自分から半径2メートルくらいに誰がいて何があるかの全方位のイメージを持っているのが普通でしょ?
生き物の本能として、自分の周囲に何があるのかは気になるのでチラチラとでも視線を送り、ちゃんと周囲の状況を把握しているのが普通でしょう。
映画がいろいろな角度からのカットをつなぎ、総合的な視覚情報を私たちに示しているのは、あたかも地に降りた鳩が首を振りながら周囲の視覚情報を収集するようなものと言えるのではないでしょうか。
そして、私たちのリアルさの実感というのは、そういうものであり、単にPOVのカメラ固定ではないのだと思います。


しかし、POVというとアダルトビデオでよく使われる手法ですが、まあ、女性の読者もいらっしゃると思うのでキャプチャー画像は貼りませんけれども、
見てみると、そもそも日本のアダルトビデオは男をなるべく映さない、それも特に顔を映さないですし、AV女優もポツポツとカメラに目線送りますんで、非常に観客目線の主観カメラに近い。
もっとも実際に性交している時に目を開けているかどうかというとどんなもんなんでしょう、薄暗くて視界の効かないところでやっていたり布団の中でやっていたりしますんで、主観カメラのリアリティとか言ってもなんとも言えないもんだと思いますが、
カメラは非常に長回しであり、役者たちの体のポジションを変えるときにカットしたりしますけれども、それでも、基本はノーカットでリアルな性交を全プロセス映そうとするものです。
そんなですから、女優の体の部位や表情を追う際に手持ちのカメラが揺れたりもするのですけれども、それが性的な興奮状態に対応しているように見えて意外に嫌な感じがしないもんです。
まあ、しかし、アダルトビデオと違って実際のところの性交は皮膚触覚の方が重要ではないのか?そしてどうあがいたところでアダルトビデオは触覚刺激を与えることは出来ないのですが、
それでも、肌を愛撫するようなカメラの動き。発情して体中に舌を這い回らせる速度に対応させたカメラワークというのは、それなりに触覚刺激を補っている(まあ当然不十分で物足りないものですけれども)のかもしれません。目で犯すとか言いますけれど、肌を愛撫するようなゆっくりした速度で異性の体に視線を這わせるのは、実際のところ触られたに近い感覚があるのではないでしょうか。

まあ、しかし、アダルトビデオの場合ほとんどストーリーもありませんし、そこでなされることは本能に源を持つ行為で、誰にしたところで本能に身を任せれば似たようなレベルですから、誰もがかなり簡単に共感というか、その画面にのめり込める訳です。尤も、性欲から通常モードに切り替わった時点で目の前の男女の汗まみれの裸画面はどうでもいいものに即時かわってしまいますけれども。

生きものの根源の部分でアダルトビデオと私たちはわかりやすい関係を結んでいますから、普通の映画がありとあらゆる手で私たちの共感を得ようとしていたりサブリミナル的に心を操作しようとしたりの涙ぐましい努力は必要としていないようです。

その点では、アダルトビデオは非常にシンプルな世界です。




ここまで、目と目がじっとあっていると、恋でもしているような錯覚に陥る。映画の中でも主人公は彼女といい仲になるのですが、それでも、彼女とカメラの間の距離は基本的にメートル単位で開いたまま。

人は個人の縄張りとしてパーソナルスペースというものを持っていて、そこに他人が侵入してくると生物学的な不快感を感じるものですが、逆に言うと、そこへの他者の侵犯を許すということはその相手を受け入れたということでもあります。
カメラは、被写体に触れる感覚を見るものに与えてくれはしませんけれども、このパーソナルスペースの侵犯をさりげなくやってくれるので、相手に受け入れられた、もしくは相手のことを好きになったような錯覚を与えてくれるものです。
アダルトビデオにしても、アイドルビデオにしても、虫か鳥のようにカメラが被写体にまとわりつくことができますので、このような芸当ができるのですが、
主人公の完全POVの縛りが出来てしまいますとカメラと女優の距離はなんとも堅苦しい。

しかしながら、カメラがキスするときの様子を模して女性の顔に近づいていく様子はなかなか不思議に興奮するものです。


それからもう一つ、
カメラを動かすことで視線の動きを表現することはできますが、それでもマバタキは表現できないんですわね。
見て煩わしいもの、特に相手の視線のプレッシャーに対しての居心地の悪さを表すためにマバタキするんですが、
視線の自由ないのに、マバタキの事由があるというのもなんか変なんですよね。
役者というのは演技中には一分間に数回しか瞬きしないもんですが、一般人って日常では一分間に40回位瞬きしているんですわ。そんだけ瞬きの回数を減らすと目が乾燥してよろしくないんですが、
POVによってマバタキの回数をコントロールできるプロ役者と睨めっこさせられると、辛いなというか、
実は
瞬き = カット の代わりなのではないか、映画の技法には生理的な根拠があるものが多いように思われる
フェイドアウト・インは、夜が来て朝になる 





もう一つ興味深いPOVの作品について考えてみたいのですが、NHKのPOV形式の外国散策番組。
世界ふれあい街歩きベトナムカントー

それなりにリハーサルとか打ち合わせもあるでしょうけれども、出たとこ勝負の撮影で
ディレクター、通訳、カメラマン位の少人数で外国の街を散策する様子を映すだけの、海外旅行を実体験させるような番組なんですが、
、その結果、私たち視聴者は、画面上の何を見てもいいんですね。
散策しているだけですから、画面上に物語が映されることもないですし、
熱帯魚の水槽を眺めているような感じですね。

細かいところを見て楽しむ 例えばこの市場のシーン


私たちは、何を見てもいいのでして、これは実際の街歩きの状況に非常に近く、街の中を何を見てもいい、これは本当に自由で、楽しい。

映像そのものは、私たちがデジタルカメラの付属機能である動画撮影を行なっているのと同様の、非常に在り来りな感じを敢えて貫いており、
私たちが旅行から戻って、家のPCで動画を見ている時のような感じ、もしくは動画を旅行に同行しなかった人に見せて、何かと解説を加えているような感じの近似値を狙っているかのようだ。




シミュラクラ現象。点が三つあるものを見ると人は、それを人の顔とみなしやすいことですが、
壁にシミ三つついているだけで人の注意はそこに集中するのですから、必然的に私たちの注目は被写体の顔に集まるようです。別にライティングやフォーカスや化粧で注目を集める必要は本来なかった。



ただしかし、音を操作して、人の注目をどこに導くかがなされていますが、それは主としてナレーションによりなされる以外に、映画的技法で、視聴者の注意を引きたい物の音をクリアに聴かせることをやっています。



また、この番組を見て分かることは、映像は景色を映しているなら、それは基本的にカメラマンのPOVであるということ。人の目の高さにカメラを構えてしまうとどうしてもPOVに思えてしまうのです。


以下の回にこの話は続きます。
映画のまたたき


それから
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