どっちへ行くの? 「クオヴァディス』

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。








50年代にテレビがアメリカで一般化し、それに危機感を感じた映画界が、テレビではできないレベルの大作を製作することで映画館に客をつなぎとめようとした時代、
その大作の中ではハシリの部類の作『クオヴァディス』

冒頭のシーン、ロバートテイラー率いる軍団のローマへの帰還。
画面の進行方向は −>に設定されていますし、それに沿って画面は一貫して−>と進みます。







なんか、チャリオットに微妙なターンが入り、方向が変わったかな、と思わせると、ローマを見渡せる丘に着いていました。

つまり、−>方向の流れに、<−の楔が入る事で、軍団の行軍が終わり、目的地にほぼ着いたことが表現されています。


これらカットの方向をジグザグに変換してみると、かなり気持が悪い。船酔いしてしまいそう。








まさに、「神よ、我らはいずこへ向かわん」てなもんですが、別の人のカットがジグザグになるのはまだいいんですが、ロバートテイラーのカットが無意味にジグザグすると、見ててものすごく気持が悪いです。
画面から全然疾走感、前進感覚が伝わってこない。

また、このように奴隷と兵士の方向を逆にしてまとめると





階級闘争的な画面に仕上がります。
似たような頃に作られたローマ史劇の「スパルタカス」の脚本家は赤狩りでハリウッド干されていますから、こういう画面構成で映画作ったりすると、何がしかの反アメリカ的意図ありと勘ぐられていたかもしれません。
この映画では、そういうベタな人道主義は出てきません。出てくるのはベタなキリスト教への信頼だけです。

一つの移動シーンにおいて、移動の方向を固定しておかないと前に進んでいるように見えない、という事は映画の教科書に書かれていますが、
実は、それだけでなく、全編の2時間弱を通して、この方向はポジティブとネガティブに仕分けられ統一的に利用されているのですね。
このことはほとんどの人が気づいていないですし、映画関係者も声を大にして語ったりはしません。おそらく他人に教えるにはもったいない秘密なのでしょう。

グーグルで「映画 進行方向」と検索かけても、私のブログしか出てきません。

でも、それに対し「マンガ 進行方向」と検索かけると、やっぱり私のブログがかなり上の方に出てきますけれど、でも、他の人も書いています。

どうしてマンガの進行方向のことが分っているのなら、映画やドラマの進行方向のことが分らないのだろう?

私には不思議でならないのですが、でも、そういう私もほんの半年前には、このこと知らなかったんですよ。

谷村美月の「眼球キョロキョロ演技」に着目して、彼女の視線が一体画面の何を見てるのかを考えている時、気がついたことに過ぎないもんでして。

実は、私も、半年前までは皆様と同じ愚民に過ぎなかったわけです。


ちなみに移動シーンに於いて移動の方向を統一しておくという手法は、30年代に於いては、まだ取り入れてない映画人もたくさんいました。
個々の移動場面での向きを固定しているだけで、映画全編を通しての進行方向、それに付随するポジティブ、ネガティブの意味づけというのに気がついていない映画人はたくさんいたのです。

ちなみに言うと「戦艦ポチョムキン」ってそういう部分部分でしか移動方向の向きを固定していない映画の代表です。
だから『オデッサの階段』のシーン以外は画面に統一的方向が見えないので「紅白おしくらまんじゅう合戦」やってるようにしか見えないんですね。
あの映画見てピンと来ない人って言うのは、ある意味健全な感覚の持ち主であり、モンタージュ大成という歴史的意義のみからあの映画を全肯定する人って、どこかおかしいと私は思いますよ。


ロバートテイラーのチャリオットがローマを見下ろす丘に着いた後のカット。


主役は−>
向きであり、脇役は<−向きと二人の立ち位置が割り振られ、映画のセオリーが履行されます。

この『クオヴァディス』の冒頭シーンの流れ、こんなん俺でも演出できるわい、編集できるわい、というか、俺だったら、絶対モット複雑な要素を介在させるぞとか思うくらい陳腐な流れなんですが、

大作映画ですから、愚民の最大公約数を対象にした映画ですから、救いがたく陳腐なのは仕方のないことなのでしょう。
愚民救うのは映画製作者の役目じゃなくて、救世主の役目ですし。