あまりにも でかいテーマについて語り始めてしまい、これ話の外郭さえなかなか見えてこんわ、ってな感じですので、
ぽつぽつ覚書程度の文章から始めてみようと思うのですが、
原作の小説と映画化された作品を比べるという行為ですけれども、
それ意味有るのか?と申しますと、
やり方次第では意味ないですし、やり方次第ではむちゃくちゃ意味有ると思います。
『地獄の黙示録』ですけれども、原作はコンラッドの『闇の奥』
んで、この二つの作品のどこを比べるのかということですが、
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『闇の奥』の発表された90年前、映画はすでに発明されてはいましたが、黎明の時期で、見世物小屋にとどまるものにすぎませんでした。
小説読むときに、多くの人が、その光景を脳内ムービー化して楽しんでいるとは思うのですが、
脳内ムービー化するときに参考にしているのが、今までに見た名作映画の数々でして、それらのカメラワークを参考に脳内ムービーを読者が勝手に監督し編集しているのだろうと私は考えております。
んなら、そのような参考にすべき映像作品がなかった時に、小説というのはどんなイメージを頭に浮かべながら読むべきものだったのか?という疑問が私に湧き上がってきます。
というか、映画が当たり前の存在になってからは、小説の書き方って変わったの?という疑問があるとは思いますが、
私の見るところでは、確実にあります。
映画のカットつなぎを参考にした情景描写、カメラの動きを想定したうえでの視点の流れ、そういうものが小説の中に取り入れられているのは、前回取り上げました『トムは真夜中の庭で』を読んでみるとよくわかります。
そして、映画があたりまえになる以前の小説では、ナレーターが出てくる小説がやたらと多い。そういえば、かつての英文学にはやたらと多い。シャーロックホームズのワトソン博士とかもそうでしょうか
『闇の奥』なんて、甲板の上で主人公がコンゴで体験したことを半日にわたってしゃべりつづけるというもので、
そこには聞き手の相槌、リアクション、考慮されていないんですが、
『地獄の黙示録』には、その辺の名残がありまして、
マーティン・シーンのナレーションないと映画成り立たないんだろうな、という気がしますし、
また、彼の一人がたりというのは、誰に対して言ってんの?というのが、聞き手のリアクション無視している感じが、原作に近いように思えます。
そこで、疑問なんですが、
主人公が体験談を延々と語るという小説の場合、読者はどのような光景をイメージしながら読み進めるべきなのでしょうか?
しゃべっている内容を頭に思い描くべきなのでしょうか?
それとも
主人公がしゃべる様子を頭に思い描くべきなのでしょうか?
映画が当たり前の社会的存在になる前の小説では、
主人公がしゃべる様子を頭に思い描くべき小説が、どうも多いような気がしています。