逆境・異郷 「ドラキュラ」「第三の男」

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。






天才の描写方としては、かなりありきたりだし、物理の話も一般教養レベルの話でしょ、
結局、この映画のポイントは谷村美月のジャージ姿なんですが、
それで、「神様のパズル」のレビューを読むとその事にしかみんな触れていないんですが、
自分は、この映画、ツンデレ的心の流れをどう表現するかについての一具体例としてみてしまいました。

その前に映画の定型的な表現について少々解説いたしたいのですが、



1931年 「ドラキュラ」
逆境という単語がありますが、主人公が逆境に立たされているとき、画面は<−−へと逆行することが多いです。外国映画は日本映画とは進行方向が異なります。
(映画論 なぜ日本映画は画面進行方向が逆なのか?)
これは、主人公がドラキュラ伯爵の家を訪ねる場面です。
そして、薦められるままに食事の席に着いたところ。

何か起こりそうな嫌な予感が、画面の向きから感じられます。



1992年「ドラキュラ」キアヌリーブスはまだ逆行していません。
それぞれの映画により、どの時点から逆行が始まり、不吉な予感が濃厚になるかは、微妙に異なります。


ドラキュラ伯爵宅の敷居をまたいだ時に、方向が逆<−−に成ります。これで、不気味な感じが倍化しました。


ドラキュラの晩餐招待は、旧作とおなじ方向ですが、バランスの欠如した画面は、より不安定感をそそります。



逆境、とまでは言いませんが、風来坊の主人公が異郷の土地を訪れるという映画の場合、主人公でありながら逆方向からの登場というのは、かなり定型化されています。



第三の男<−−逆行登場。
アメリカ人の主人公が友人の消息をおって異国のウィーンにやってきた。



以上のお約束事化されている映画の方向操作を踏まえたうえで、
市原隼人谷村美月がはじめて会う場面を見てみましょう。



市原隼人谷村美月の家の門で挨拶する。
あんまり気乗りしない訪問なんですが、それでも、家の外にいるときはまだ<−−とポジティブに余裕です。
何度もいうようですが、日本映画は外国映画と進行方向が逆になります。
(映画論 いつから日本映画の進行方向は逆になったのか?)


家の中に入ると、もう−−>とネガティブであり、

ドアを開けるに於いては、もう恐る恐るという感じです。

この一連の流れを見てみると、ドラキュラ伯爵家の訪問とほとんど同じパターンが使われています。


ただ問題なのは、この部屋の中で主人公を待つ天才少女はドラキュラと同じなのか違うのかと言う事ですが、


カメラを動かして、さりげなく市原隼人の進行方向が<−−ポジティブに変わっている。


市原隼人は、谷村美月の後姿を見とめる。彼女のポジションは真ん中で中立。

画面の流れ的に、谷村美月は、決して魔人ドラキュラのように市原隼人に害をなす存在ではない事が感じられる。
たとえ、彼の訪問にしばらくの間振り返ろうとさえしなくとも、不快なオーラを画面は発してはいない。



谷村美月が振り向く場面。椅子の回転の方向がポジティブで、その動き自体が、物事がいい方向に振れる予感を与えてくれる。


基本的に人間の内面は見えにくい。見えにくいから人の心理を読むに長けた人には、それなりの利益が舞い込む事になる。

ただ世の中の多くの人たちは、そういう能力があるわけでもないので、役者の演技があまりに現実的すぎると、却って演技から微細なメッセージは届かなくなる。

しかし画面がどちらに動くかという事に関しては、どんな馬鹿でもみればすぐに分るのである。
ただ、ここで重要なのは、観客の99%は、このとき谷村美月の椅子がどっち方向で半回転したのかについては留意していない。映画を見終わった後に、どちら側の回転だったかを尋ねてみたところで、ほとんどの人がどっちでもいいと思うに違いない。ただしかしそれが漠然とした印象であったとしても、映画の流れの中で肯定的なシーンは<−−であり、否定的な場面は−−>の動きを伴っているので、その類推から、観客は漠然とした好感をこの椅子の半回転シーンから得る事になる。

この椅子の半回転のシーンでたとえ谷村美月の演技に何も表現されていないとしても、いや、何も表現していなければそのぶんだけ、
谷村美月は意識的には自覚していないが無意識の領域では、この市原隼人との出会いをポジティブに捉え何かを期待している、そんな風に観客には感じられるのだ。

映画のすごいところは、俳優が何にもしなくても、音楽、色彩、画面の流れなどによって、俳優の無意識的内面が表現できてしまう点である。

映像と言うメディアがなぜ、活字よりも、人をその気にさせてしまうのか、なぜテレビ放送の開始が一億総白痴化などと危惧されたのかの理由はそういうところであろう。


そう考えると、谷村美月が無意識に自分を連れ出してくれる男の子を待っている映画だと考えてみると、
これは、魔人ドラキュラなどでは決してなく、「眠れる森の美女」になぞらえる事の出来る物語と言えるだろう。



「君は本当に物理学科の学生か?」
「ああ、当たり前よ、むっちゃくちゃ物理よ。ああいい電子だ」

あまりのアホさに呆れて、男への評価マイナス30点。
先ず視線が−−>ネガティブ方向へと流れる。


彼女側の出会いの期待感がほとんどしぼんでしまった事を表す、逆方向半回転。
ここまでの画面の流れを見ていると、合コンでの男と女の心理の流れに極めて似ているのが分る。



画面上のポジショニングは、ポジティブな位置にいる人はよりリラックスでき有利な立場にいるが、ネガティブにいる人は緊張感とストレスにさらされる。

この画面では、谷村美月市原隼人に最後のチャンスをあげるところ。
まだ男に失望しきっていない谷村美月の心情を反映している、もしくは滑り続けてきた市原隼人の立場を示しているのだが、
ただ、二人の位置はどちらも中央に固まっており、二人の距離は心理的にまだも近く、葛藤や対立はほとんどないと考えられる。

しかも、一見、そっけなく背中を向けているだけに見える谷村美月だが、映像に於いては同じ方向を向いている人物が同じ気持ちである確率は極めて高い。
むしろ見詰め合っている時が、対立を示す場合の方がはるかに高いのだ。

まだ映画が始まってから20分くらいの時点だが、ここで市原隼人がすたすたと彼女の方に歩み寄って、後ろから抱きしめてしまえば、それ以上語るべきことも無く、映画はハッピーエンドで終わる事が出来る。
なにも紆余曲折を経て二時間も語るというめんどくさいことは必要ないのかもしれない。






「研究のテーマは何だ?」
「宇宙の作り方とか」
「ほう、それは面白い」



目線を合わせずに立ち上がり、市原隼人とポジショニングを重ね合わせる。
それは二人が心を交差させたことの比喩的表現であり、映画に於いてこの立ち位置の表現は、サブリミナル的に観客に作用している。

谷村美月は、無表情で、特に何もしない。この何もしないというのが、ある意味では演技であり彼女の心のきらめきみたいなものは無意識に限定されている状況を示している。



彼女は、無表情なままで大して乗り気でもない様子なのだが、それは顕在意識レベルのツンデレのツンの部分を表しているだけであり、潜在意識レベルでは、まだデレ始めてはいないものの、恋の始まりを予感しているように観客は受けることになる。

映画のすごい点というのは、登場人物の無意識を表した表現を、観客の側も無意識に取り込むことが出来る点である。
精神医学のレポートでは患者の無意識を文章化し、読む側は顕在意識上にその患者の無意識を受け取るだけだが、



登場人物の無意識的を観客が無意識的に感じるというのは、無意識レベルの共感というべきことではないか?
おそらくこれは、共感を引き起こすテクニックとしては、もっとも効率のいい方法だろう。





また、このシーンで、市原隼人谷村美月の生足を見ることになり、
「おまえ、スウエット似合ってるな」と言う。つまり彼女の生足への好感度大。

非常に効率のよい描写で、テンポよく二人の恋愛の土台が出来上がったことを観客に伝えている。
映画の展開が速いとは、このような効率のよい表現に依拠するものである。


そして、それでも、この映画の谷村美月の演技が今ひとつ面白くないのは、彼女が示すツンデレのデレの部分が、画面の流れによってのみ表現されている場面が多すぎるからなのではないだろうか?
普通はツンとデレの兼ね合いに喜びというものがあるのだ。
両方しっかり演じてほしいと思うのだが、
映画そのものは、まあまあ面白いのだが、個別に谷村美月の演技を取り出してみると、その無表情な顔の可愛らしくなさ加減とあいまって、ツン要素だけが突出し、それゆえ今ひとつな感想を、自分はこの映画に対して持っている。
もしかすると、彼女が映画の中で示すデレの部分と言うのは、ジャージ一着で通す事によって惜しげもなく晒される、太ももと胸の谷間によって代替されているのかもしれない。そのように想定してみるならば、ほとんどのレビューが彼女の胸の谷間と太ももに集中している理由がよく分かる。
そして、その事実は彼女が映画の中では直接伝えないメッセージは、映画に於いては潜在意識的コミュニケーション法により、観客の潜在意識に届いているということの証拠である、と言ってもいいと思われる。