映像の意識操作はサブリミナル的に行われる   

人間は往々にして見ているはずの物を見ていない。聞こえているはずのものを聞いていない。


見ているはずのものを見ていないというのは、それは人間の目の構造による。人間の目は焦点をあわせることで立体感を感じるのだが、その焦点から離れた部分は、意識の中にあがってこない。

焦点、つまり注意を向けた部分はしっかりと意識される事になるが、そこから外れていくに従い、薄ぼんやりとしてしまい、何があったのか無かったのかがどうでもよくなっていく。
だから、よくなじんだはずの風景でも、写真に撮ってから見直すと、自分がそれまで実に多くのものを見逃していた事に気づかさせられる。
現物の風景を見ているときには、注意の枠が焦点周辺に限定されているのだが、写真の枠内に風景が収められてしまうの、とりあえずその枠の中全てがとりあえず注意の対象となるからだ。

テレビの画面にしても、写真と同じことで、本来人間の注意は画面の枠内部全てに注がれそうなものだが、そうとも限らない。まず、テレビの画面が大型化すれば、画面の各部分への注意は拡散し、目はどこかの箇所に注意を集中しなければならなくなる。これは劇場のスクリーンのように大きくなればなるほど、現実の光景の条件に近づいていく。

また、人間は本能的に動きのあるものに注意が行きやすい。それは天敵から身を伏せる事、もしくは獲物に気を配る事、もしくは他者とコミュニケーションをとるために生き物の動きに注意が集まりやすいからだろう。
だから人間の注意は動きのないものには行きにくい。人間は動きのあるものを中心に意識の枠組みを作る。


人間の注意は、生きている人間の方に注意が向きやすく、谷村美月の遺影は注意の外にはみ出る事が多い。

また当然のごとく人間の注意は人間そのものに向かう。特に顔面の表情に向かう。


人間の注意は二人の人間の方に向かい、窓の外を14台続けて車がーー>方向へ向かう事には注意が行きにくい。


このように人間の視界に対する注意は、さまざまな条件、要因により、不均一化している。
目で見ていながら、見ていないように感じられる部分がそうとうに多いのだ。

普通サブリミナルメッセージと言うと、ごく短い時間の映像的指示のことについて言われるのだが、
自分が上述してきたような、「見ていながら、その事に自覚的でないもの」の心理的影響力は「意識では見えないはずのもの」よりも大きなものであってしかるべきであろう。

「映画の画面には川のような流れがある」、自分はその事について会う人事に語ってきたのだが、ほとんどの人の反応は、『へー、だから何なの?』というものだ。
自分には、どうしても、この現実が信じられない。

テレビのCMは<−−方向に流れる。日本と外国では映画の進行方向が逆になっている。しかも日本では恣意的に50-60年代に方向を逆転させている。また、ゴジラガメラは歩く方向が逆だったりもする。

これらの事実を列挙しても『へえ、だから何なの?』とまるで驚かない普通の人間の反応を信じる事がいまだに出来ない。

で、ありながら、当の本人の自分自身もほんの4ヶ月前まで画面には河のような流れが存在し、その流れは製作者により恣意的にコントロールされているという事に気がついていなかった。
それが、気がついた途端に、このマイブーム、一人大騒ぎである。

そして、この画面の進行方向と、映画の情感やストーリーが一々対応している事に気がついたときには、もう、自分達は、みんなマスメディアの前では愚鈍な奴隷に過ぎないのではないか?と思わざるを得なくなってしまった。

それは、単にストーリーを盛り上げる為に、画面の流れを従わせているだけなのでしょう?と言って、大して真に受けない人たちもたくさんいるのだが、いや、もしかしたら、画面の進行方向によって流したくも無い涙を流させられているのではないか?怒る必要も無い相手に怒らされているのではないか、と自分は自分自身を疑わずにはいられないし、本来全ての人がそのように疑ってみるべきではないのか。
そして映画と同様のテクニックは、CMやニュース、ヴァラエティー番組でも頻繁に使われているのである。

まるで「1984」の物語のように、テレビを通して我々は多かれ少なかれ飼いならされているのではないか?
中国のような国のテレビ番組と先進国のテレビ番組には大した違いなど端からなかったのではないか?

テレビを見たら馬鹿に成る、そういう事を言う人は多いのだが、なぜテレビを見ると馬鹿に成るのか、の具体的テクニックについて事細かに述べた人はいない。
苫米地英人は、テレビを見ると馬鹿になるというような本を書いてはいるが、内容的には全く物足りない。

なぜ、誰もこのことについて騒がないのだろう?どうでもいい事だからだろうか?単に自分の頭が狂っているからなのだろうか?

自分の頭が狂っていようと、いまいと、どちらにしても怖いことには違いない。

自分以外のほとんどの人間がおかしいのか?
自分にとって一番重要な人間である自分自身がが狂っているのか?

その二つのうち、どちらがよりましな現実なのだろう?



ただ恐れていても仕方がないので、その画面の流れに注目し、自分は何本も映画を見てみた。
そして流れに沿って登場人物の心理を推察し、物語の意図を推察してみると、本来正しい映画の見方などあってはならないはずと思い込んでいたにもかかわらず、きわめて明白な映画の画面の意図があるように思えて仕方がなくなったのである。いや、少なくとも編集のプロセスを踏んだ段階で、どのように観客が映画を感じるべきかは、あらかた決めつくされているはずである。

そしてこの点も気持ちが悪いのだが、映像編集の技術として、自分が書いているようなことは、製作者達はみな知っているはずなのである。そうでなかったら、撮影や編集が出来るはずが無いし、場合によっては演技することだって不可能なはずだ。