「読書・映像化」をキーワードにしてグーグル検索。以下のような文章がヒットします。
scrumside5さん
映像化はされますが、私の場合、映画やテレビドラマのような映像とは異なります。「イメージ動画」のような感じとでもいえば良いでしょうか。いや、必ずしも動画ではないかな。コラージュ的なスライドショーといった方が正確かもしれません。場面の背景とか、人物の服装とか、手先の動きとか、揺れる髪の毛とか、姿勢の変化とか、室内の調度品とか、そういったものが次々と連続して思い浮かびます。人物の顔は、ぼんやりとしていることが多いです。そういったものが思い浮かばないときも、読むのが止まることはありません。たとえ頭の中に映像が出現しなくても、ストーリーに没入することは十分に可能です。映画やテレビを観ている感覚とは、大きな違いがありますね。
私たちのほとんどは、読書しているとき頭の中に何が浮かび上がっているかについてものすごく無自覚です。
私にしても、自覚的になったのは、
「もしこの小説が映画化されたとしたらどうなるだろう?」と映画のプロデューサーみたいなやり方で小説を読むことが増えたからです。
すると、いろいろ気が付いてくるのですね。私たちの頭の中では読書内容がものすごくいびつな形で映像化されているらしいことに。
実際の映画化って、脚本家が映画化可能な形で文章化、それを監督のイメージによって映像化するのですが、その際に多くの美術スタッフ、ロケハン、メイク、衣装などなどの協力により、初めてリアルな映像となるものでして、それに費やされる時間は数か月から数年。
それを、一般的脳力の一個人が文章読みながら逐一リアルな脳内映像化するなんて到底無理。つまり、小説読んでいる時の脳内での映像イメージって、かなりいい加減なものらしい、と私も思っていましたけれども、こちらの方の回答からも、その脳内映像化は、かなり臨機応変でいい加減らしいことがわかります。
さらに言うとCGが行うような座標軸のデータを入力して物質を自由自在に脳内移動させるような能力の持ち主ってほとんどいないはずですから、読書子の脳内映像って静止画になりやすいとは思います。
PCのデータ容量にして画像と動画では全然重さ違いますし。
断片的な映像、時には動画でなく静止画、人間の顔の表情は脳内映像化しにくいから大抵うすぼんやり、
そんなあやふやな脳内のイメージをストーリーが束ねてる、そんな感じでしょうか。
こういう人もいらっしゃる。そして、こういう人はまだいい方。
おそらくこの逆のタイプがスティーブン・スピルバーグ。ありとあらゆる単語を脳内映像化してしまうので、活字を読むことがほとんどできない。
このタイプはたとえ天才であったとしても、IQテストではみじめな成績になるでしょう。学校の成績もよくはないでしょうね。
たとえば、
89: 名無しさん 2014/03/08(土)13:30:34 id:DhI+b6UU6
例えば原始時代に行って青銅器をこさえよう、と。すると何が必要か。
耐火煉瓦を作れる人、その材料を採集できる人、セメントを作れる人とその材料を採集できる人、須恵器を作れる人とその材料を採集できる人、燃料の炭や木材を用意できるだけの人手と道具、そしてもちろん青銅器に精通した職人とその鉱石を用意できる人手と道具。
「耐火煉瓦を作れる人」とは言いますが、
まず耐火煉瓦って普通の煉瓦と視覚的に何が違うの?気になりだすと グーグル検索始めることになります。
こねた粘土を陽で乾かすだけでなく、窯で焼いてあって値段が高いのが耐火煉瓦。
見た目の相違は、
素人目にはそんなにはっきりしません。
そして、曲者なのが「耐火煉瓦を作れる人」という箇所。
耐火煉瓦を作っている人ではなく、それ作る能力のある人という意味です。
これですと耐火煉瓦か日干し煉瓦か区別つきませんし、まずこの男の人煉瓦作り人なのか煉瓦運んで積み上げる人なのかの区別もつきません。
それに、「耐火煉瓦を作れる人」って、
耐火煉瓦をつくる能力があれば煉瓦職人でなくてバーテンダーが本業でも構わないわけですし、
今現在煉瓦やいてる必要もなくてスーツ着てスタバでコーヒー飲んでいてもいいわけです。
「ご紹介いたします。こちらは耐火煉瓦職人の安倍さんです。原始時代にご一緒してもいいとおっしゃってますので…」
こういう可能性もあるわけですよ。
「耐火煉瓦をつくれる人」を映像化しようとしたときに、煉瓦をやいている人の姿を映し、それが日干し煉瓦でなく耐火煉瓦であることを工場の看板とか台詞で説明するのがありがちだと思いますが、
文章読んでいるときに、そんなこといちいちやるのか?というと普通の人はやらないはずですが、スピルバーグのような人でしたらやるのかもしれません。
「耐火煉瓦をつくれる人」を脳内映像化するとしたら、
こんな感じで、煉瓦と職人に札つけとけばいいということになりますが、
これってリアリズムの映像とは違います。
いうならば、記号化された映像でして、
言語には、
映画のような映像化ができる箇所もあれば、記号的にしかとらえることのできない個所もあり、
普通の読者はこの二つの区別を適当に済ます術を人生の中で体得したのですが、
ある種の人たちはここで引っかかるのだろうと思います。
また、本をすいすいと読める人だからといって、
映像化が求められている個所と記号でしかありえない個所を上手く区別できているかというと、
恐らくいたるところで、ミスを犯しているだろうとは思います。
そして作者の側ではどうなのでしょう?
完璧な文章がないように、完璧な読者もいないといったとこでしょうか。
「読書・映像化」で検索した結果、もっともおもしろかったのが、
◇小説を読んでいる時に、映像として浮かんできますか。ぼんやりなんとなく浮かぶ、映画のよう、あるいは挿し絵がきれぎれに浮かぶなど、具体的にお答えください。また、あるシーンだけ鮮明に浮かぶ、小説によって違うが浮かびやすいものがある、というとき、例えばどのような作品は浮かびやすいか教えてください。
◇また、映像が浮かぶだけでなく、その他の五感のイメージも一緒に浮かぶでしょうか。
◇主人公などにとても感情移入できた時は、その視点で世界が感じられるという人もいますが、そういうことはどうでしょうか。
このようなアンケートを、文芸関係の仕事につている方々にされたそうで、その回答から興味深かったものをピックアップ。
☆文章そのものを記憶するという能力が皆無なので、読んだ小説を思い出すときはやはり映像になる。
普通はやっぱそうなりますわな。
☆篠田さんは多くの場合、映像ではなく、言葉で覚えているのだという。ただし、マンガ好きの篠田さんは、マンガなら頭の中で完全に再現できるものがあると言う。では、小説はどのように覚えているのか、と問うてみると、ストーリーは、言語的なプロットとして思い出せるか思い出せないかのどちらかであり、印象的な言葉、フレーズなどはそのまま覚えている、ということだった。
逆にこういう人もいるらしい。
☆基本的に映像として浮かぶ。特に建物とか家の内部などを視覚化できないといらいらする。
たしかに、そういう入り組んだ空間描写って難しい。
建築やってる人だと、ノートに図面書きながら本読んだりするんでしょうか?
☆文字の象形的なイメージは強く感じ取るが、個々の言葉にもイメージはある。例えば「優美」から来る視覚イメージは、ブルトン「優美なる死骸」の影響を受け、常に「デスマスク」として浮かんでくる。
つまり、単語レベルで喚起するイメージがきまってるってことのようです。
☆また、「したがって」「なのだ」についてはあまりイメージが浮かんでこない。
何を言ってるんだ?と思われる人もいるかもしれませんが、
☆接続詞等、補助的な言葉には、イメージはわかない。テンポやリズムは感じるけれども。
外国語学習の時、節と節の関係を図形化してみると理解の助けになることが多いですので、文法の機能的語彙は図形や記号と親和性が高いという感じでしょうか。
そして、文章には本当ところは順接の接続詞って省略可能で語調整えてるだけって場合が多いんですよね。
☆「部屋ではバッハのが流れている」と書かれあっても、決してバッハなど思い浮かばない。バッハのイメージが(荘厳で重々しいなど)視覚として変換されて出て来る。
これ、わたしには結構面白いテーマでして、小説や漫画の台詞の中に特定の楽曲のことが言及されたとき、その楽曲を脳内再生できる人って、この世の中の何%なんでしょうか?
私は、圧倒的な少数派だと思います。
さらに言うと、たとえば、『ドラえもん』を例に挙げると、あの吹き出しを読むとき、読者の何%が特定の声優の声を脳内再生しているのでしょうか?ついでにいうと、ビートたけしのインタビュー記事を読むとき、ビートたけしの音声を脳内再生している人も何%なんでしょうか?
さらに言うと現実の声優や俳優の声入れではリテイク何度も繰り返したりしますので、
「今の私の頭の中の大山のぶ代の演技はいまいちだったので、リテイク」とかやってる人何%くらいいるんでしょうか?
奇異なこと書いてるように見えるかもしれませんが、活字の脳内映像化を始めると必ずこういう問題に至ります。
だから、つまり、小説で特定の声音や楽曲について言及した時に、音のまま思い浮かべるのではなく、その音にまつわる漠然としたイメージを文章にかぶせる人が主流なんだろうな、ということなんですね。
このような脳内操作もある種の記号化といえるかもしれません。
☆意図的にイメージするとなると、映画のようにカメラワーク的な画面になってしまう。映像世代のすり込みゆえだろうか。それも含め、通常は三人称的な視点で、感情移入すると一人称的になるというのは、感覚としてわからなくはない。
読者の脳内イメージが映像に影響されている、その可能性は大いにありますし、
そうだとしたら優れた映像のスタイルって私たちの脳内イメージの在り方を規定するような怖い存在だったりするはずです。
また、読者だけでなく作者の方でも映画的な脳内イメージを先に思い浮かべてからそれを書き写している場合もあると思います。
小説読んでる時のスカスカな脳内映像って、私たちが毎晩見ているはずの夢とそっくりなんではないでしょうか?毎晩見ているゆえに、私たちは、小説が喚起するスカスカな脳内映像にたいして飽きることもなくかかわれるのだろう、という仮説を立ててみました。
わたし、以前、夢の中に出てくる本棚の中の本って、本当に文字書かれているんだろうか?背表紙だけなんじゃないか?という疑問を感じたことがありまして、夢の中で、その本を手に取って確かめてみない限り、その本には文字が書かれていたとは言えないだろう、という結論に達したのですが、
ある日の、明け方の半分目覚めているような夢の中でちょっと実験してみたことがあります。まあ、自分が夢見てるって自覚のある夢だったんですが。
夢の中にラジエーターが出てきたんですが、「部屋の隅にあるの、それ、ラジエーターだよ」ってことらしいんですけど、あんまりリアルなラジエーターに見えなかったんですよね。「このラジエーター、俺がちゃんとチェックしないと思って、いい加減な形で夢に出てきやがった」と思ったら、化け損ねた狸が申し訳なさそうに化け直した、とでも言いましょうか、そのラジエーター、私がイメージできる最高限度のリアルさのラジエーターに化け直りました。つまり、いちいち突っ込まなければ、私たちの夢の世界って、いい加減に化けたキツネやタヌキが跋扈する世界らしく、小説の脳内映像化ってのも似たようなレベルなのだろうな、ということで。
☆本当に好きな小説については、ちっとも語りたくないし、読んでほしいとも思わない。あまり現実的ではないが、私だけのもの、というか。たとえ誰がどんなにすばらしくその作品を評論しようとも、そういった現実は敢えて無視して、この作品をいちばんわかっているのも愛しているのも私、ほかの人にはわからないわ、というような、ほとんどお話にならないスタンスになってしまう。
小説を読んで脳内映像化する際に、その映像化の材料って読者個人の心の中の所有物であるわけで、その点を強調して考えると「小説読んで感動した」ってのは、きわめて個人的な体験であるともいえるわけです。一見奇妙なんですが、このような意見が出てくるのはごもっとも。
小説を読むことにより頭の中に新しいイメージが与えらる側面よりも、
無意識的に小説によって頭の中に蓄えられていたイメージが再構成される側面の方が重要ではないか?
私はそう考えています。
そして、もともと頭の中のイメージのストックが貧弱な場合どうなるのか?例えば100年前の日本人読者が『戦争と平和』を読んだときどんな脳内イメージ持っていたんでしょう?
当時の日本人にあんな光景想像できるはずもないと思うので、おそらく当時の読書子の頭の中は、ことごとくトンデモ映画状態だったはずです。