脳内ムービー 『ダンスダンスダンス』公開中

村上春樹の『ダンスダンスダンス』で主人公と超絶美少女の出逢いのシーン。

「縞麗な子だった。長い髪が不自然なくらいまっすぐで、それがさらりと柔らかくテーブルの上に落ちかかり、まつげが長く、瞳はどことなく痛々しそうな透明さをたたえていた」

これが美少女のルックスについての描写です。
全編通して、これ以上外見について描かれることもありません。とにかく綺麗という単語で押し通します。


本当のことを言うと、痛々しそうな透明さをたたえた瞳とはどういうものなのかが私にはピンと来ません。

本当は、これ、外見の描写ではなくて、彼女から主人公が感じ取ったイメージが書かれているのだと思うのですが、

痛々しい = 過去に心に傷を負うような経験をした
透明さ  = 損得勘定を抜きに世の中を見ること

そういうことだと私には考えられます。

眼の描写というのは、
相手の眼を覗き込んだことの描写というのは、
自分の心の描写でもあったりする。
瞳は 鏡の役割を小説に於いて伝統的に果たしているのでしょう。


そして、その女の子に出会ったのは、札幌の一流ホテルの26階にある壁一面がガラスのバーです。
無論夜景が美しく、本の中の描写によると、スターウォーズの宇宙都市のようだと。

おそらくべスピン 帝国の逆襲のランド・カルシリアンの街


この小説 舞台は1983年の春なのですが、たしかにこの年に『スターウォーズ ジェダイの復讐』が公開されますけれど、それは7月で、『帝国の逆襲』が公開されたのは1980年。
さらには、デビッド・ボウイの『チャイナガール』とかマイコ―とポール・マッカートニーの『セイセイセイ』はこの時点では発表されておりません。

ところどころ時空の歪んだような箇所がこの小説にはあるのですが、


「でもその女の子の中にはなにかしら全てを上から見おろしているというような趣があった。悪意があるわけでもないし、攻撃酌なわけでもない。ただ、何というか中立的に、見おろしているのだ。窓から夜景を見おろすみたいに」

女の子の描写ですけれども、この描写を如何して脳内映像化するかということですが、

女の子は世の中の現実にちゃんと立脚していない状況で、自己の利害とは別のところで物事を何でも判断しているように主人公は感じた、ということを視覚的イメージで表現したのだと私には思われるのですが、

小説の登場人物の心の中のつぶやきを、ナレーションや役者の声で表さないとしたら、
その心情を表現する際には、心を視覚的なものに変換し、それを画面に映すことしかないわけです。

だから、この小説のこのシーンの書き方は、実に映画的に私には思われるのです。

そして、村上春樹は、このシーンを書くにあたり、先に脳内で映像化して、それを描写した可能性があると私は推理し、

わたしは私で勝手に、この箇所を脳内ムービー化するのですが、

「でもその女の子の中にはなにかしら全てを上から見おろしているというような趣があった。悪意があるわけでもないし、攻撃酌なわけでもない。ただ、何というか中立的に、見おろしているのだ。窓から夜景を見おろすみたいに」

これ、床もガラス張りにして、魔法のじゅうたんみたいに女の子のテーブルとイスが宙に浮いているように見えるシーンをCG使って脳内ムービー化してしまうのですが、

それって、『ルパン対クローン人間』のシーンをもとにしたわたしの妄想であり、さすがに村上春樹はその映画とは無関係にこの箇所を書いたとは思うのですが、


書く方は、書く方で、『スターウォーズ』のイメージを引っ張ってきますし、
読む方は、読む方で、自分の知ったる作品からイメージ引っ張ってきてます。


映画がなかったとしたら、小説を読むということは、今の様にすんなりいかないんじゃないでしょうか?


「あの映画のあのシーン…」ということで、相当に込み入った視覚イメージを伝達することができますし、
日常生活では得難い視覚イメージのストックを大量に持っているのが現代人なわけです。

こういうの無かったら、小説の描写って一体何だったんだろう、小説読んでた人たちって何思ってたんだろう?とかつての小説を研究してみても面白いのかもしれません。


まあ、それはいいとしまして、
この超絶美少女の描写、空中浮遊のイメージに見えません?

いま、わたしが前を向いているとすると、
後ろの光景は見えません。
でも、
一分前にチラ見した後ろの光景から、一分後の現在の光景も大体正確に推論しているはずでして、
実のところは、目に見えていない部分を含めた立体的で全方位的なイメージを頭の中に常に保持しているのではないでしょうか?

空中浮遊って、人間が死にかかって脳の機能が暴走始めたりしますと、勝手にその脳内の立体的で全方位的なイメージが強烈なリアリティーを持ち始めて、空に浮いているような錯覚があるのでしょうが、


空中浮遊している少女 つまり死の世界に半分足を突っ込んだ少女もしかすると実は死んでいるかもしれない少女、という印象が私の中でうごめき始めます。




「僕は何となく自分が彼女に選ばれたような気がしたのだ。それはこれまで一度も経験したことのない奇妙な胸の震えだった。僕は自分の体が五センチか六センチ宙に浮かんでいるような気がした」
女の子に微笑まれたことで、主人公もこの臨死体験のおすそ分けにあやかります(という風に私には感じられた)。
そうとでも、解釈してあげないと、これ、ほんとロリコン小説です。

この後、ホテルのエレベーターに乗ったら、ありえない暗闇に連れていかれるのですが、

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の書き出しは、エレベーターが昇っているのか降りているのかわからない状態についての描写です。
ある意味、重力から切り離されて、空中浮遊している状態に近いのがエレベーターの中の状態でして、

そういう一種の「臨死体験」が死の世界、もしくは死を抱合した暗がりにつながるというのは村上春樹的には当たり前のイメージのつながりなのでしょうし、一度コツをつかむというか仕組みを理解してしまうと私にもすんなり飲み下せるイメージのつながりです。