このブログを三年前に書き始めたとき、
自分には絶対確実なことが他の人には全く分からなかったことに対する むかつき、怒り、とまどい、恐怖、みたいな気持ちが原動力でした。
そして、ブログを書いて一年以上たってから、富野由悠季の『映像の原則』を読んで、
自分の書いていたことは基本的に正しかったことに安堵するとともに、先人はとっくに気づいていたことに少々がっかりもしたのですが、
自分の考えていたことが、世間的にはマイノリティーでも、業界内ではあらかた正しいという事が分かり、気分的にすっきりして、
非常に軽い気持ちで『映像の原則』を読み飛ばしていたことに今になって気が付きました。
この本、読み返してみると、非常に読みづらい。
著者自身が本の中に書いているんですが、
富野由悠季は中学生になるまで小説が読めなかったそうです。
スピルバーグも、それに近い人物で、
恐らく、文章の単語一つ一つに映像的イメージが喚起され、一行読むごとに脳内妄想に浸り、それから少し醒めて次の行を読み、また脳内妄想…というプロセスが本を読むことである人でしたら、
本を読むのはめんどくさくて仕方のないことなのでしょう。
そして、この本は、読んでるだけでそういうめんどくささをおすそ分けしてくれるものです。
いちいち脳内で図形イメージを想起しなくてはなりませんので、めんどくさい。
一行読むたびに、ノートに図形書いたりしないと、なかなか理解できません。
そして、何度読んでも違和感を感じる部分は、
←の方向が 強くて速いと感じるのは人間の生理的部分に根差す傾向 という
「科学的知見」の部分です。
右から左への流れ ←の方が速く感じられる。だから、
こちらの円の方が、
こっちの円よりも、
より速く、手前に飛び出してくるように見える。
という意見。
マジですか、それ?と私は思うのですが、
←の流れの方が →の流れよりも速く感じられる。それゆえ ←側のポジショニングの方が強く見える、という意見に対しては、
日本人は文字を縦書きにして、その行は←方向に読んでいくから、
←方向の流れに目が慣れているだけではないか。
だからこのような実験をする前に、英文とか横書きの理科の教科書でも一時間くらい読んだら、実験の結果は変わるんじゃないか?という気がします。
また、仮に生得的に←方向の流れが速いと感じられたとして、その速さは→の流れに対して絶対的なアドヴァンテージを持っているのかというと、おそらくそれはないでしょう。
だって、アメリカ映画って、画面の進行方向が→と逆向きであり、登場人物の画面上のポジショニングも日本のアニメとはことごとく反対ですから。
この左右の反転によりアメリカ映画が日本映画に対して何がしかのハンディを負っているかどうかというと、日本がアメリカ映画にハンディあるんじゃないの?と考える方が、両国の映像文化の力の差から考えるに妥当なような気がします。
個人的な体験からの感想で言うと、→方向で進行するアメリカ映画を二本続けてみた後に←方向の日本映画を見ると、最初の内は画面上の左右の方向をアメリカ的な→で解釈して、途中でハッと気が付くことになります。
さらには、富野由悠季がロボットアニメの大家という偏ったジャンルの人なのですが、
上に書いた円は下に落ちるだけだが、下に書いた円は上に上がるしかないので上昇力が加味される。
よって、←側の下側が四つの内で一番強そうに見える、
という理屈。
そりゃロボット、空飛びますけど、普通の人は空飛べない地に縛られた存在なんで、
普通のドラマでは、この二つはあんまり区別付ける必要ないんじゃないでしょうか?
画面の上にあるものが下に落ちてくるように見えるというのは、上のものが下に落ちるという現実世界の重力を疑似的に感じているだけですが、
右のものが左に動くというのは、映像で物語するために人為的に業界人が作り出した内輪ルールです、というのが私の考え。
上下と左右は質的には別の差異でしょう。
私が考える映像の進行方向というのは、基本方向を右なり左に設定したあと、その流れをどうやって紆余曲折させるかという相対的なものにすぎませんが、
富野由悠季の『映像の法則』では、この方向、画面上の位置が人間の身体構造に根差した絶対的なものである、
そして、それゆえに、ものすごく図式化されたクライマックスの画面の方向について書かれた箇所があります。
「負けそうな劇の時には、押されっぱなしを表現するために、右方向から来る敵に対して、ずっと左向きに演出します。その間の劇なり戦闘シーンは、画面全体が、左の下手に流れる構成にしてあります。
そして、、逆転劇の瞬間に右向きに変えて上昇志向を発生させて、下手から上手に向かわせることによって観客の視覚印象のダイナミズムを利用して、より逆転劇が印象付けられるように演出しています」
これに類することを私は「逆走」と名付けたことがあって、
大抵、物語の趨勢が決まってしまい、主人公もそのことについてあきらめてしまっているような場合が多いです。
流れに逆らっても、なかなか前に進めません。
でも、どうしても諦められず、主人公は走り出します。
流れに逆らって進むのですから、ものすごい速度、全力を尽くした速度じゃないと前に進めるようには見えませんから、こういう場合、主人公は自転車を立ち漕ぎするか全力疾走します。
そうして、ほとんど出来上がっていた趨勢を壊した後、新しくつくりかえられた流れの中に主人公が乗って、状況が一変します。
こういう流れが最近の日本の作品にはいやに多いような気がします。アメリカ映画やディズニーと比べて多いかどうかは調べていないので分かりません。
でも、最近の日本の作品にはとにかく多い。
富野由悠季の本の中にある通り、こういう場面にはこういうやり方というマニュアル対応的な仕事って見ててつまらないというか、そういう場面に出くわすと、わたしの場合は即ダメ映画判定を下すんですが、
とにかく、この「逆走」クライマックス、増えてます。
もしかすると富野由悠季がこんな風に簡単にまとめてしまったも一因なのかもしれません。
逆走クライマックスって、映像の流れを一度ぶち壊すのですから、そのシーンの前後の流れにうまくつながるようにするの難しいはずなんですよね。
そして、非常によくできた逆走クライマックスが、
細田守『時をかける少女』
富野由悠季が『おおかみこども…』を絶賛していたのも記憶に新しいところです。
<関連>「映画の法則 クライマックス」
わたくし、このブログを書き始めた最初の一年間は、いろんなことを考えて見まして、
日本映画が←進行なのに対して、アメリカ映画が→進行なのは、時代劇と西部劇の違いからだろうかなどとも考えてみました。
まあ、それはないのでしょうけれども、
刀を持った人物を画面に映す時、より目立たせたい人物を画面の右側に持ってこないと、肩と背中ばかり映すことになってしまいます。
肩とか背中に色気のある人もいるとは思いますけど、
ガンダムの背中って子供みたいなランドセル背負っていて結構まぬけですから、ガンダムの立ち位置って基本←にならざるを得ない訳です。
そして、右と左のどちらが強く見えるか?という話の前に、右側に立った方が、持ってる武器がはっきり画面に映るんだからそりゃその分のアドヴァンテージはあるわな、という気がします。
また、思ったんですが、ガンダムの操縦システムって人間の動きを機械で増幅させたようなものなんだとすると、パイロット左利きの場合は武器も左で持っているべきなんですよね。
もしリアリティを追及するんだったら、左利きのモビルスーツってのもあってしかるべきなのでしょうね。
そして、諸々の左右の画面上の力関係のセオリーに新たな一石を投ずることになるはずなんじゃないでしょうか?なんて。
(いやいや、お前は何を書いていたんだ。このガンダムは、刀を左手に持っているぞ!!!!)
2013年12月14日付
あちゃー、大まちがい。これは失態。まんまと富野由悠季に騙された。