『映像の原則』 そのように見えないというのであれば、どうしようもないのですが…

富野由悠季の『映像の原則』を読み直しているところですが、

私のこのブログの内容は、『映像の原則』第五章とほとんど同じなんですが、

2012年の一月半ば以前の記述に関しては、直接マネして書いてるわけではなく、ただいろんな映画のDVD観ながら書いてただけなんですが、




違うところがあるとすれば、
画面の方向操作の効能の根拠は、

『映像の原則』の場合は
人間の生理的条件に根差した普遍的なもの らしいです。

わたしの場合は、
観客の注意の及びにくい部分を使って、登場人物の心を表現し、それに無意識に観客を同調させる作為的な技法 という事でして、


もちろん、わたし的には、自分の書いていることの方が正しいと思ってます。
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まあ、それでも大体のところにた様なことばかりですが、




『映像の原則』五章の最初にこんな図が書かれていて、



と同じ方向の連続だと 何かが続いているように見える。




と逆方向になると、変化・対立があるように見える。


ごちそうさん


という事ですが、

「そのように見えないというのであれば、どうしようもないのですが…」という事らしく、



実際、わたしも何人かにこの手の話をしてみたところで、ほとんどの人が理解できないんですね。

つまり、
「そのように見えるんだけど、そのことにあまりにも無自覚である」人がたくさんいるだけなら、私が個人的にむかつくことが多いだけで、映像作品的にはむしろ本望というべきでしょう。


しかし、本当に「そのように見えない」人がこの世界にはたくさんいるのかもしれない、
と思い始めると、

映画やテレビドラマって分からない人にはとことんわからないものなんだろうな、と思い至らざるを得ません。


このブログ、この半年間で、一番閲覧数の多いのは『エスター』について書いた回なのですが、


わたしからすれば、画面の進行方向を一一拾っていくと、当然こういう結論になりますし、

映画作った連中も私が感じたと同様のかなり反社会的な情念込めたはずの作品であり、それが映画の興行的成功への危惧につながりラストが差し替えになったことは、大体見当が付きます。


でも、
「そのように見えない」人たちって大勢いるみたいで、
映画内のことを強制的に自分の日常生活実感に接ぎ木することではじめて納得出来るらしい人、特に女性に多いですね、

母性は絶対正しいという科学風味の迷信でカモフラージュされた自己肯定欲、不倫はゆるせないという社会維持のルールを映画の物語の中にまで持ち込もうとする無粋さ、

そういう観点からエスターの物語を理解しようとしたとき、なんか面白いのか?と私は思ってしまいます。


「うっそー、そんな馬鹿いくらもいるわけないでしょ」と思われるかもしれませんけれども、
エスターのラストが差し替えになったという事実を思うにつけても、そういう困った人の方が世の多数派なのではないかという気がします。

このブログで散々取り上げているリドリースコットですが、彼にしても『ブレードランナー』『テルマとルイーズ』でラストが差し替えになっており、

画面上の方向で物語の無意識的部分を表現するという技法の一般的な効能の限界が、このことからも分かるような気がします。


こちらのブログ使うと、『映像の原則』の関連記事あさるのに便利です。まとめた方、ありがとうございます