富野由悠季『映像の原則』には、 画面には 上手下手があり、
← が上手で 巨大さ 強さ 等に親和性が高いということが書かれています。
では、彼の画面構成理論では
物語には統一的な方向があり、それを追求する場合には ←方向、それができない場合は →という発想はあるのでしょうか?
多分、ありません。ワンカットごとの印象操作的なものが前面に出てくるというのは、ガンダムが結局のところ玩具の宣伝番組であり、その使命を全うすることに強い責任感を持っていたということなのかもしれません。
ガンダムを語る前に、その一年前に放映された宮崎駿の『未来少年コナン』を比較の対象にしたいのですが、
オープニングの画面からしてそうなのですが、コナンは徹底して←方向を追求します。
この分かりやすい方向は、コナンの内面のシンプルさの反映といえるのですが、
この方向性は全編通して存在するものでして、
『未来少年コナン』には、全編を通してのテーマがあるということができると思います。
そして、このように画面の方向操作が身に沁みついている宮崎演出というのは、
この画面の様に、
コナンとジムシーを左右の葛藤として描くとともに、その和解のベクトルとして中間からトカゲがのそのそと動き出し ←方向に進みます。
それを捕獲するために、二人とも ←方向に向きをそろえることになります。そして和解。
宮崎駿にとっては物語上のもっともらしい理屈よりも、まず先に納得しうる視覚なのですよ。それさえあれば、見ている側はちゃんとわかってくれると確信しているはずです。
彼が日常世界の現実的理屈によってではなく、画面ベクトルの在り方によって思考しているらしいことは、
コナンがジムシーの島を見つける前段階として、通り雨で顔の向きを変えるシーン、
ヴァラクーダー号に乗り込む全段階として、ロボノイドに乗って船の乗組員たちとベクトルの方向をかき混ぜるシーン などからもはっきりとわかります。
未来少年コナンの画面進行の操作に関しては、私のブログの第一章でほぼ完全に説明しきれる(というか、ブログの内容自体宮崎作品の解析に負うところが多いので当たり前といえば当たり前ですが)のに対し、
実のところ『機動戦士ガンダム』は、よくわからないのですよ。
そのよくわからなさの由来というのが、彼の画面の方向操作の理屈が、実のところ一般的な映画の画面操作の理屈と少々ずれているところに由来するのだろうと私は考えるのですが、
ところで、みなさま、
「認めたくないものだな、自分の若さゆえの過ちというものを」 この台詞の意味って分かります?
正直言うと、何のことを言っているのか私には確信が持てません。
そして、日常生活的には 他者が言っている言葉など分からない場合の方が多いのですから、
これがリアルだといわれる分には、 うんそうだよね、としか言いようがありまんし、
この台詞が分からない以上に、ガンダム第一話ではシャア少佐についてほとんど何もわかっていないのですから、
むしろ、この台詞の意味が分かる方がおかしい。
もし、宮崎駿的にすっきりと端正な画面進行にしたならば、この「認めたくないものだな…」の台詞にも正しい居場所が見つけてやることができるのでしょうか?
ガンダムの画面をチェックしてみるとこの台詞についてわかるようになるのでしょうか?
ガンダムは戦争についての物語なので、本来画面の分析をしやすい作品のはずなのですが、
画面で、何と何が闘っているのかと考えてみるのですが、
これはアムロが、ガンダムに乗り込むべく号泣しながら走る場面。
コロニーに ←方向で攻めてきたザク等の勢力に攻め込まれ,にげまどうはめに陥ります。
まあ、ザクはアムロの敵であることは間違いないとして、
それ以外にどのような要素がアムロと対立構図をなしているかというと、
ホワイトベースの入港のシーン。ザクと戦う立場ながら 同じ←方向メインです。
巨大さ、強さを ←の方向で示すという富野理論に従ったものらしい。
その他
連邦軍の将兵
アムロの「敵」はジオンだけでなく、これら要素の複合体です。
さらに言うと、
ガンダム自身も その第一の出逢いではアムロとは相容れない方向です。
まあ、ザクはいいとしまして、
それ以外の要素がアムロの「敵」を構成しているのですが、この「敵」とは何かを考えるにあたり、
フラウ・ボウがアムロの部屋に入ってくるシーンをもう少し詳しく見てみましょう。
このシーンを見ていて、フラウ・ボウとアムロはどんな関係だと思いますかの問いに、
「世話焼き女房」とか「お母さん代わり気取り」とかの言葉が思いつく人がほとんどだと思いますが、
この点に関しましては、音を消して画面だけ見ていてもほぼ同じことを思うはずです。
画面とは → と ← 方向の葛藤とその解消を示すもので、その仕組みを利用して物語を進めていくものなのですから、
→ から攻めてきた敵に対して、一切防御することなく 画面の端まで侵入を許してしまう相手というと、完全に心を許した相手ということになると思います。
闘争を放棄することに何ら慙愧の念を感じない相手、心理的防御を施す必要のない相手、というと、
「母親」であると考えることは妥当なのではないでしょうか?
そして、
アムロだけでなく、ハヤトに対してもフラウは母親のように優勢です。
このように序盤で描かれていますから、フラウの母親が爆死したシーンでは、
物語の中から母性がごっそりと抜け落ちてしまったように感じられてしまいます。
一つの仮定として、アムロは子供であり、この第一話で一応の自立を果たす、大人への一歩を踏み出すということにしておきましょう。
彼が大人に一歩踏み出すために、落とし前をつけないといけない要素が ←方向で並ぶとするなら、
彼にとってのイニシエーションに立ちはだかったものは、
母性であり、
もちろん、父親も結果として廃人化する事故に巻き込まれます。更には事実上アムロが殺したようなものですから、もろエディプスコンプレックス的なイメージです。
そして、大人が構成する軍隊や官僚組織の冷淡さが←であり、
一番最たるものは、社会的現実として目の前にある戦争です。
これらに対して、そっぽを向いて下着姿でオタクしている子供が、
いやおうなしに関わり合いを持たされて、半強制的に大人にさせられてしまうのが、ガンダム第一話のですが、
何をきっかけとして、その関わり合いの中に身を投じたのかというと、
怒り、悲しみ、涙という過剰な感情反応です。それに駆られてガンダムという暴力マシーンに身をゆだねたわけです。
ある意味、ネオナチや紅衛兵に加入する青年と似たような心理ではないですか。
わたしには、シャアの台詞「認めたくないものだな、若さゆえの過ちというものを」の具体的な内容とは、
シャア本人の過ちというよりかは、この第一話におけるアムロの過ちについて言っているのではないかと感じられるのですね。
この第一話ではシャアの向きはアムロと対立しているのかどうなのかがはっきりわかりません。
彼は味方のようにも見えますし、厳然としたラスボスのようでもあります。
最終話までのことを知ったうえで語るなら、シャアはアムロの先輩で、ある意味この時点のシャアは未来のアムロの姿といえるわけでして、
それにシャアが復讐を誓ったいきさつというのも、アムロが怒りに駆られてガンダムに乗り込んだのと似たようなもんです。
それ故に、この時のシャアの言葉というのは、この時点のアムロについてのものなのだと感じてしまうのです、私は。
そしてそうでなければ、この台詞って謎なだけで、物語の中に居場所がない、
いや、少なくとも、画面の進行方向の中からはじき出されてしまうように思われます。
わたくしこのような映像の見方をしていて、かねてより思ってきたことなのですが、
画面上の左右の方向の選択というのは、完全に監督やカメラや編集がコントロールしているのかどうなのか、もしかすると、スタッフの無意識的なものによって気がついたらできていた場合もあるのではないかと思うのですが、
富野由悠季の場合、画面配置の法則が私から見ると変なんですよ。
内臓の位置の原因により、←向きが人間にとって自然なものに見えるとか、
無条件に←側は強く見えるとか、早く見えるとかの理論ですが、
わたしには、まるでオカルト理論です。
わたしが言っているのは、一方向に一定の傾向を重ね続けることで、観客には心理的残像が方向に重ねられる。
そして、特定の方向に予感を得ることで物語により強いリアリティを感じられるようになるということでして、
この理屈でスッキリ割り切れる作品はいくらでもあります。
意外なことに、画面の構成理論を公開している富野由悠季がわたしの言っている理屈から意外にに離れており、
そして、わたしには、富野作品というのは、彼の無意識的な画面構成の選択痕跡が画面上にみちているようにしか思えなかったりします。
ガンダム一話について、ここで私の語っていることは理路整然としているようですが、それは果たして本当に富野由悠季が意図したものだったのだろうか?
彼はこのようなことを意図しなかったとしても、結局のところ彼とそのスタッフの無意識にはその様な主張が潜んでいたのではないか、
そして製作者の無意識が、登場人物の無意識として表現されてしまい、それを観客は無意識的に受け止めている、
そのようなある意味の幸福な作者と登場人物と観客の関係はあり得るのではないか?という気が多少してこないでもありません。
そして、シャアの台詞についてなのですが、結局どうなのかが分からないままなのです。
そして、謎が存在する、というのはそんなに悪いことでもなかったりします。
なにがしかの価値があるはずだから謎といわれるわけで、
価値が誰にも見えないのでしたら、それはわけわかんないガラクタいすぎないのですし。
そして、もう一つ気になることは、
ガンダムは、長編として、画面上の方向を追求しているのかどうなのかということです。
主人公が基本的に最初から最後まで同じな未来少年コナンの様にシンプルな話でもありませんし、
視聴率、打ち切りというシビアな状況下で制作されたものです。
もしかすると全編を通しての画面進行ではなく、各一話ずつの画面の流れがあるだけなのかもしれないと考えると、ハッとするものがあります。
劇場版三部作の見てて辛い感じというのは、そこに理由があるのかもしれないと思ったりもしました。
ガンダム第一話が大人になるイニシエーションについての物語であるならば、このシーンは、
男根、貫通、初体験、そういう臭いが充満していてイカ臭いように思われます。
著書に「四畳半のオナニー」とかお書きになる方ですし、だいたいセイラさんのファミリーネイムの「マス」ってそういうことらしいんですよね。