第二話 『握った手』
『リンダリンダリンダ』の山下監督の作品で、主演が成海璃子、
実は見る前の期待値が一番高かったのですが、
「文学って、言ってることわけわかんなくて、そのくせ偉そうで、かっこつけてて、ムカムカしてくる」という文学に対する偏見をこのシリーズの中で一手に引き受けたような作品。
こりゃつらいわ、見るのが。
第三話 『幸福の彼方』
ものすごく偉そうに上から目線で、「これいい作品でしたよ」とか言ってしまいそうになる。
わたしみたいなアマちゃんは、こういう画面を見ると、「あっ、小津安二郎」とか思いそうになるんですが、
畳の上にカメラマンが這いつくばるように撮影したら、それで小津なのか、どうなのか、
小津安二郎の映画って、たぶん、画面の左右の方向無いです。
だったら、画面の構図が似ているけど、左右の方向意識してる映画って、小津と言えるのかどうなのかというと、
うぅむ、どうでしょう?
男と女のお見合いのシーン。
以下の内容を読まれるのでしたら、こちらbaphoo.hatenablog.com
と、こちらbaphoo.hatenablog.com
をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
画面の進行方向が ← の場合、画面の向かって右側の人が有利な立場です。
基本的に、ほとんどの画面を横切るものが ←方向に進むのですから、観客は、常に←方向の残像のようなものを感じながらこの画面を見ていることになります。
お見合いのシーンで、男の方には向かい風が吹いているようなものです。
戦争で負傷して片目の見えない男、お見合いの成功に自信がない。さらには、女の質問に答えるたびに、「ぶっ」と笑われる。
完全に逆境です。
向かって右側が立場の強い人が来るのが普通ですから、このブログでそっちを上座とか呼んでいるんですが、
第一話 『鮨』
リリーフランキー演じる小説家に、ほのかな憧れを感じる女学生の橋本愛。
そういう設定の話なんですが、「おい、てめえら、いいかげんせえよ」とむかっ腹が立つ。
中年のおっさんの願望の映像化、おいおいおい。うらやましい、うらやましすぎる。
岡本かの子原作のこの『鮨』、どういう話かというと、
たまごと海苔しか食べられなかった子供が、母親の握った鮨を食うことで偏食を克服し、一生、鮨をとくべつな食べ物として愛し続ける、という、
なんか『美味しんぼ』にありそう。
この作品、面白いのは、人にごちそうするときは、その人を「上座」に配せよ、という発想。かなり徹底してます。
ご馳走される人が、床の間の上席をあてがわれるかのごとく、
画面上の向かって右側に配置されるという事です。
隣の客に酌をするリリーフランキー
カウンターで鮨を食するリリーフランキーのカットつなぎ
つまんでから、食するカットになると、リリーフランキーが「上座」になっている。
こういう風に映画を見ていると、画面の流れから、その映画が何をテーマにしているのかが分かってしまうもんですが、
初見では、物語がクライマックスに至るまでは、なかなか進行方向が見てても分からないもんです。
画面の進行方向が容易に見てとれるというのは、非常に強く意識的に、テーマを画面上に映し出そうという意識の反映だと私には思われます。
そして、二回目に見たときに、細かいところがボロボロわかってくるのですが、
そういう分かってくることというのは、私が自分の先入観と偏見で自我を防護している状態だと、本来知るゆえんのなかった部分です。
この映画で、画面の流れを強く意識したシーン。
市川実日子が息子に自ら鮨を握るシーン。
潔癖症で、極端な偏食、それゆえにやせ細っていく子供。
その子の目の前で、きれいに洗った調理器具をそろえ、自らの手で鮨を握る母親。
基本画面がこうです。
偏食家の子供にとって魚の切り身乗せた鮨って、ありえない食い物ですから、逆境ポジションの →
そのまんまの位置関係で、鮨を握り続ければいいものを、このカットで 母親が → 向きになっています。それも極めてさりげなく。
そして、いやいやながらも口に運ぶ子供のカットの構図。
→向きの人物であるにもかかわらず、極端に 右方向に寄った構図。
自分のみているものに自覚的でない人にとって、写真の構図は、かっこいいとなんとなく思うものに過ぎないのでしょうけれども、
これら、構図に込められた意味は、ほとんど言語のように明晰です。
偏食を克服できた子供に感動する母親。
このシーンの始まりのカットと比べるとよくわかりますけど、
人に何かを食べさせようとすることは、その人を大切な人として扱うこと、つまり、上座に配することである、ということなのです。
白身の魚から赤身の魚にエスカレートしていきますけれども、それでも子供は美味しいおいしいって食べ続けます。
完全に ← 位置です。
もし、もしですが、
映画のことを全然知らない人に、時給4万円でこのシーンの絵コンテ書いて撮影してみてくれと頼んだとしましょう。
ただ、基本の位置関係に通りに、母親が寿司を握り、子供がそれを食うだけにするでしょう。
そして、画面だけでは説明不足になるから、ナレーション付けるでしょうね。
この映画のこの場面は、どうして子供が偏食を克服できたのかが画面だけで説明できています。
もちろん、市川実日子の演技がいいというのもありますけど、
このカットに込められた、マジック、というか、それまでの物語の流れを柔らかに断ち切る機能。
そして、この方向反転の画面にどんな意味が塗りこめられていたのか?というのは物語の前後から観客が推測するしかないのですが、
これに先立つシーン。
魚屋で、絞められたタイを手に取ると、そこから血が零れ落ちる。
魚を自分の家でさばいてみるとわかりますが、新鮮な魚の生臭さというのは、そのほとんどが血の匂いです。
だから、包丁づかいをミスって自分のユビサキを切ったりしますと、キャベツの千切りでさえも「魚臭い」んですよ。
私はそういう風に意識が巡りますので、このタイを手に取る母親のシーンから、
結局、人にものを食べさせる行為とは、自分の命を削り与える行為と同じだ、という認識に達した場面のように思われてしまいます。
そんな母親の思いを受け取って、子供が生きる方向に向かって動き出した、そういう風に私は感じるのです。
橋本愛のいない世界とミロのビーナスのない世界のどちらがいいかと神様から聞かれたとしたら、私の答えに迷いは一切ないでしょう。
ミロのヴィーナスってさ、冷静に考えると、美人じゃないでしょ?たぶん人類の美女に対するイメージに何の影響も与えていない。
孤独な中年作家リリーフランキーが引っ越してしまい、橋本愛の寿司屋に来なくなって久しい。
彼女は、
市川実日子が寿司に込めて彼に与えた愛情を思い返すように寿司を握ってみますが、
それは不恰好です。第一、上座に配されて、それを食してくれる作家は不在のままです。
彼の不在、彼が一生通して反芻し続ける愛情の記憶と、それを思い出し続け無くては生きていけない彼の孤独のことをかみしめるように、
自分の不恰好な鮨を食する橋本愛の後ろ姿。
感動します?
もし、あなたが感動するとして、そこに橋本愛の演技力は関係あるのかというと、
たぶんあんまり関係ありません。
極論すれば、映画俳優とは、映画の一部として機能すれば、演技なんてしなくても、構図と編集で何とでもなってしまいます。
ネット見てて驚くことなんですが、橋本愛の演技力について賛否両論あるんですね。
私は、うまい下手で言ったら、下手と思います。
ただ、ルックス以外の点でも人引き付ける魅力は確かにあります、それに伸びしろ相当あるでしょうね。
彼女を下手と決めつける際のぼそぼそ喋りですが、
ジェームスディーンもそうでした。
声小さい、何言ってるか分かりにくい、それで魅力なかったら無視されるんですが、
もし魅力あったら、みんな耳そばだてるんですよ。
その喋り方と対応するかのように、この映画では彼女の室内シーンは照明暗くて不明瞭。
そんでも、というかそれゆえに、彼女見てしまうんですね。
ピント外された画面も多いです。
そんでも、リリーフランキーよりも橋本愛に視線が行く。
ぼやけた画像の中でも何かを表現しないといけないのが映画俳優というものです。これは、多少の演技力があったとしても、華がなければどうしようもないことです。
「死んだ奥さんのこと好きだったの?」
どうしてそんなこと聞く?
「だって鮨に嫉妬はできないから」
この台詞をぼそぼそ喋ります。
二回見たけど意味わかりませんでした。そのあと風呂に入りながらこのシーンのことを考えていると突如意味が分かってしまい、
中年オヤジどもが作った映画に込められた恥ずかしい願望というのに赤面してしまいました。
映画の中では、リリーフランキーもこの台詞の意味を理解しないままです。
そして、ぼそぼそ語られますし、彼女の顔逆光ではっきり見えないですし、瞬きもど素人なみに回数が多い。
そしてそれゆえに映画として機能しているという事実に驚かされます。