- 作者: 松本大洋
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2012/02/29
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夢の中で、僕は女の子の部屋の中にいました。
その部屋には大きな本棚があって、隣には6段のタンスがあり、テレビ台の上にはブラウン管の古いテレビが置いてあったけれど、コンセントの電源が入っていない。
机の上には花瓶が置いてあり、そこには水が入っていなく、さされた花は茶色く干からびていて…、
昨日このような夢を見みたとしましょう。
そんで、この本棚に本は詰まっていたのでしょうか?
本棚があるということは認識していても、そこに本があるかどうかについては不明ということは、
夢は全て見た人の頭の中で作られるということを考えても、
本棚に本はなかった、という結論が妥当なんではないでしょうか。
夢の中で、あなたが本棚をちゃんとチェックする気がなかった。チェックするような流れを夢の中に作り出さなかったという時点で、本棚の中の本を作り出す気があなたにはなかったということなのでしょう。
つまり、夢の中においては、見なかったもの触れなかったものは存在しない。
完全な唯識論の世界です。
もちろん、こんな唯識論は夢の世界の論理にすぎず、
現実では、見えなくても存在するし、聞こえなくても触れることができなくても存在します。
ただ、面白いのは、漫画とか映画ですわ。
漫画の世界じゃ、めんどくさい部分とかを大胆に省略して白いまんまにしておくことがあるんですが、
何を省略すべきなのかというと、
描くのめんどくさいからといって省略するのは多分正しくないのでしょう。
省略すべきなのは、さっきの本棚の中の本の有無のように、どうでもいいと認識してしまった場合には空白と同じなのですから、そう云う部分を躊躇なく略す。
そうすることで、漫画って、読者の意識の流れを恣意的にコントロールできるものらしいです。
「ほら、あそことあれに注意して。それが大切なものだから。そしたら必然的にこんな気持ちがするでしょ」
漫画って、省略したり、執拗に書き込むことのアンバランスさによって、こんなふうに読者の心操ってるわけです。
漫画って夢の世界に似ているよな、というか、夢って個人個人が毎晩描いている漫画みたいなものかもしれない。
- 作者: 松本大洋
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松本大洋は、ガリガリと細かく書き込む絵の見事さを売りにしていたように私は思っていたんですが、
『sunny』では、むしろ何も書かれていない白地の部分がものすごく雄弁になっており、
それって、私たちが毎日見ている夢の光景に非常に近いと感じた。
それと比べると、映画って、漫画みたいに非現実的省略をしたら、その部分が目立ってしょうがないですから、
しょうがないから、本来認識にいたらないようなところでもリアルに作り込み移しこまないといけないもんです。
そんで、本来、観客の視線がいたらないような無意識的に流してしまうような箇所に、
サブリミナル的なメッセージをポンポン配置していくのが、映画の心理操作の技法というもんです。
さっきの夢のなかの本棚の中の本で言うと、
観客も登場人物もその本の背表紙なんかに気を止めていないはずなんですが、
そういうところに敢えて、いわくありげな本を並べておいたりするのが映画というものです。
説明的な芸術が常に行うテクニックはこういうもんで、
観客の視線と意識をわかりやすいところに誘導し、その陰の目につかないところでメッセージを伝え、そのメッセージに無意識的に観客を同調させる。
つまり、奇術師が右手を大仰に振り回してそこに注意を集める影で、左手はこそこそと白い鳩を羽ばたかせる準備しているってやりかたです。