『卒業』 2分以上続く←の流れ

私のブログは、あまりにも主観性が強く、客観的なデータを求められている方にとっては無視していただきたいのですが、

1967年の傑作映画『卒業』の中に、
「ベン、おまえこれからどうするつもりだい?」と暗闇の中の人物からダスティンホフマンが尋ねられる。

「ぼくは、…、 ぼくは変わりたい…」



人間はチョウチョやカエルのように姿を変えること(変態)はできませんが、
内面的なことを問題にした場合、
やっぱり、人間もチョウチョとかカエルみたいに変わる生き物なのだろう、と私は考えているのですが、



基本的には思春期のときに、家庭から距離を置き隠し事をたくさん持って、家族や親戚よりも同世代の仲間の中に自分の居場所を見出そうとするときに、

人間も別の生き物になる、そう私は思います。

牛とか馬とかサルも、哺乳類は思春期を区切りとして社会の立場を組み替えるので基本的に似たような人生?を送るはずなのですが、


思春期とは、性的能力の発現の時期であり、チンポやマンコの周りに毛がはえて、生き物としては生臭くなる時期なんですが、

映画『卒業』に於いては、大学時代を童貞ですごした優等生がその後どうして行くべきかの悩みが延々と描写されます。



親から買ってもらった誕生日のプレゼントの潜水服。

ちなみに潜水夫のことをfrogmanといったりもする。

この映画では、かなり執拗に水から陸に上がり姿を変えていく両生類の変身をイメージさせるようなシーンが繰り返されます。

ご存知のとおりミセスロビンソンと関係持ってからは、プールの水面に漂っていたりするシーンが出てきます。

印象的な『四月になれば彼女は』のシーンでは、水の中を泳いでいるダスティンホフマンが水面に浮かぶマットに飛び乗ろうとしたら、そのマットがアンバンクロフトの横たわるベットに変わるというのがあります。

まあ、セックスを契機にして人間は変身するということを示したシーンだと思われるのですが、
ただ、
そうやって変身した後のカエルはおたまじゃくしよりも美しい生き物なのか?というと、なかなかそういうわけでもないように見えるのですね。

チョウチョだったら文句なく芋虫のときよりも成虫のときのほうが美しく見えるのですが。




自分の手で、本当に自分が求める女を奪い取り、ものすごく頼りないのだけれど、それでも自力で生きようと決意する、

そういうのって、「何か美しいな」と私なんか思ってしまいますから、このキャスリンロスのひらひらするウエディングドレスが、チョウチョの羽を思い起こさせてくれるのですけれども、


でもね、いやみなこと言うと、この二人ってインテリカップルで、親の庇護受けなくてもいくらでもいい職探すことできるんですね。
明日なき暴走とはぜんぜん違います。

飛行機を降りてからのダスティンホフマンが動く歩道で←方向に動き続けるシーン。
私が延々とこのブログで書いてきている内容を考慮しながらこのシーンを見ると、

自分の意志とは無関係に日々過ごしてきた優等生が、彼から見て自分の思うままにいき照るような人たちの動きー>にいちいち神経質に羨望の視線をやっているという風に見えるでしょ?


正直、ダスティンホフマンの<−方向の動きの後、彼の手荷物も←方向に進みますので、非常に長い<−方向への動きです。

この長ったらしさが、主人公のどうしていいのかわからない度つぼ状態の比ゆとして存在しているのでしょう。



それと比べると、ラストシーンは、一応バスはー>方向に進んでいることを短い時間で示されはするのですが、
基本的に二人のカットは正面から映された中立的なものです。

この正面からのカットが役者二人にとっては予想以上に長いカットだったので、二人はどうしていいのかわからず不安げな演技を続けますが、

これがまさに劇中の二人を待っている今後の未来の予感とぴったり一致するのでしょう。


この映画は、二人が自分たちで人生の行き先を選択したことを肯定はしますが、それがばら色の未来であるかどうかの保証は一切なしてはおりません。



このシーンから私は、ジョンレノンの名言(迷言)を思い出します。

「大成功?いいんじゃない、それはお前の人生だし。大失敗?それもいいんじゃない、それもお前の人生だ」