以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
1971年公開の『ゴジラ対ヘドラ』ですが、この当時の日本映画は ―> の画面進行です。
昭和のゴジラシリーズは、ゴジラが人類に危害を加えるときには <― 方向に進行し、人間のために怪獣と戦うときには ―> の方向をむいて戦います。
『ゴジラの逆襲』
完全な悪役だった頃のゴジラ。当然のごとく <― 向き。
ゴジラシリーズといっても、本多猪四郎と福田純以外の人も監督やってるわけでして、いろんな趣旨のゴジラ映画があると考えてよろしかろうと思うのですが、
『ゴジラ対ヘドラ』坂野義光監督で、彼はゴジラシリーズこれ一本しかとっていません。
主役だと思っていた柴俊夫が途中であっさり死んでしまったりで、不可思議な作品なのですが、
ゴジラとヘドラの立ち位置というのも、
どっちが主役だか、どっちが正義の味方なのかよくわからない混乱したものです。
この混乱ぶり、この割り切れなさが『ゴジラ対ヘドラ』の特徴だと思われるのですが、
ゴジラってのは、原水爆が回りまわって人類に復讐することの象徴だとすると、
ヘドラというのは、公害が回りまわって人類に復讐することの象徴なわけです。
どちらが悪質であるか、どちらが人類の敵であるか、と考えるに、
どっちもどっち、同じ穴の狢でありまして、
一応ゴジラは、ケツ持ちとして、ヘドラを退治してはくれますが、なんともやるせない様子で去っていきます。
ヘドラも、二作三作と登場を重ねていくと、ゴジラのように人類の身方としてキングギドラなんかと戦ってくれるようになったのでしょうか?
結局のところ、ヘドラの登場はこれきりでした。そして、デザイン的にあんまり玩具にはむいていないですわね。
ヘドラが襲った場所というのが静岡県富士市。被害にあった人の数が1000人程度というのが、やたらと現実的な災害の被害者数でして、
この映画の寓意を示していたように思われました。
「水銀、コバルト、カドミュウム・‥」
みうらじゅんがネタにしていた、変な歌詞の挿入歌。
でも、よくよく考えてみると、マーヴィンゲイとかジョニミッチェルの歌もこれと似たような歌詞だったりする。
麻里圭子、結構かわいい。