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岡本かの子作『鮨』   『BUNGO〜ささやかな欲望〜』

「お寿司に嫉妬はできないもの」 わたくし、映画の最後のこの台詞に対して思うところありまして、

例によって橋本愛のぼそぼそした喋り方で、こういうことを言われるので、何言ってるのか意味が分からなかったんですけど、

二回見て、それからしばらく考えていたら突然意味が分かってしまったんですが、


こういうのって、活字だと、どの台詞も同じ大きさと濃さの文字であらわされますから、
「後になって考えてみるとそういうことか!」みたいな体験ってなかなかありません。

さりげなく情報を提示することが、映像のようにうまくはできないのです。

ほんで、岡本かの子の原作では、この台詞がどんな風に扱われているのか調べてみると、

そんな台詞、原作にないんですね。
まあ、そうだろうな、とは思っていたんですが。


この『鮨』という短編小説、前半は諸々のことの説明に費やされており、
映画を見た後に読むとものすごく退屈でくどいです。

それは何でかというと、映像は勝次よりもはるかに情報量が多いという事でもありますが、そのほかにこんなこともいえるのではなからふか、

司馬遼太郎が文化と文明の区別を説明する際に、江戸前寿司と滋賀の鮒ずしの話を例に用いていて、

文化とは、伝統とお約束事で成り立っており、部外者にとってはとっつきにくい臭みのあるもの。

文明とは、だれがどう見たところでも絶対的な魅力のあるものであり、すべての人に参加を促すシステムが必然的に伴う、

と書いてまして、


どっちが江戸前寿司で、どっちが鮒ずしかはお分かりだと思いますが、

大阪出身の司馬遼太郎の話によると、彼は大人になって東京に行くまで江戸前ずしを食べたことがなく、初めて食べたときに、いきなり旨い!と感じたそうですが、

今の江戸前の寿司屋の光景というのは、この短編小説が書かれた時には、全国津々浦々の人が知っているものではなかったのでしょう。
それゆえ、江戸前寿司屋の光景を活字情報で読者に与えねばなりませんので、退屈なことに、寿司屋の描写が長いです。

今の私たちにとっては、寿司屋の描写を読んだところであんまり得るものがありません。


主人公の女の子のルックスについての描写は全くなされません。これは小説の定石通りです。
読者は登場人物のルックスを想い描くときは、ルックスに対する記述からイメージを膨らませるのではなく、その行動から、いかにもそういうことをやりそうな知人のイメージを流用して脳裏のイメージを形成し、読書にいそしむのが普通ではないでしょうか。(少なくとも私はそうしています)
そんなせいもあってか、彼女のルックスについては一切の記述がないのですが、どうして、彼女が小説家の先生に淡い憧れを抱くのかについては、かなり説明されています。

小さいころから、酒飲んで本性表す男たちを見てきたから、はにかんで何者か分かりにくい男に逆張り的に興味を持った。
親が教育熱心で、女学校に行ったために、セレブと教養のにおいに敏感で、そして憧れがある。

映画を見た後に、こういうの読んじゃうと、なるほどと思う反面、理に落ちたつまらん話だなと思ったりします。
そして、そういう面白味のない内面を持つ少女のルックスに対しても、今現在の私にとっては、あまりいいイメージも湧きあがりません。


おっさんが寿司屋に行って、そこで手伝いしてる美少女にあこがれられるって、
男の夢ですわ。
そういう夢を疑似体験するために映画観てるんですから、
橋本愛リリーフランキーにあこがれるという展開には、わたし的には疑問の余地がありません。
ただ、見てて少し恥ずかしくて後ろめたいだけです。

なんで、彼女がおっさんを好きになるのか?って映画では、おっさんの願望的には、まったく理由説明される必要がないのですね。


そんな説明的な序盤が終わった後、

空き地で先生が打ち明け話を始めるあたりから小説の方もテンポが良くなってくるのですが、
文章で説明するというのは、意味が分かりやすいですから、それなりに曖昧で焦点を絞らなくても、成り立ってしまいます。

それと比べて映画って、画面と音だけで意味を絞り込むことが難しいものですから、

小説の方にあったはずのテーマのふくらみみたいなもんは、相当に整理されて一本化されること、多いのでしょう。


脚色次第では、
どうして、この家は衰えたのか?とかどうしてこの先生は他人の愛情を受け入れることができないのだろうかとかをメインにして、かなり違った映画にしてしまうことも可能だったはずですが、


この映画、企画上、それぞれの話に、それなりのいい女優さんを充てて、
観た人に「どの女の人が一番よかったですか?」みたいな話に持って行きたい感がありありなのです。

それゆえ、主演橋本愛ですから、男と女の恋愛未満の話にまとめられることになったのだろうとは思うのですけれども。


以下の記述は、
『映画が抱えるお約束事』の内容を踏まえたものです。
画面の進行方向、→などの意味は、そちらに記してあります。



先生が物語を語り、女の子はその聞き手に徹するのですから、二人の立ち位置基本形はこうなってます。

(時々自分のキャプチャー画面を見て、なるほど、などと思ったりもするのですが、
人間って、相手に対して自分の敵意のなさや好意を示すために、自発的同調圧力を用いるらしいです。
相手にそれとなく行為を示すために、相手と同じ姿勢、ポーズをとるというのはよくあることです。
先生と女の子の体の傾きの角度、まったく同じ)


「銀座なんか行かなくても、その辺の空き地で休んでいきましょうよ」
行先を決めるときだけ、彼女の向きが に変わる。
このカットのつなぎ方、
前回取り上げた、子供に寿司を握る母親のシーンと発想は同じでしょうか。

この映画、人をもてなす時には、側に客を配するというアイデアの映画でして、

それゆえ、

こうやって画面が繋がれてきた空き地のシーンの構図には、
彼女の行きつけの空き地に招待された先生、という意味を帯びてしまいます。
そして先生へのごちそうは、野に咲く白い花。

岡本かの子の原作では、この映画にある淡いラブストーリーの要素は ほとんどありません。
空き地も、少女のお気に入りの場所でなく、花も咲いていません。
ただ、作者のバタ臭いものへの憧れを示すように、その元病院の廃墟である空地は、ローマの遺跡のようだった、とのこと。


空き地について、先生が一言、
「きもちいいね」
女の子のほうも
「きもちいい」

日本映画によるある常套手段です、
抑制されたほのかな性欲を表現するために、関係ないものにたいして「気持ちいい」と台詞を入れるやり方。

この点を見ましても、この映画って、一応男女関係の物語なんですね。
もちろん小説には、こんな台詞ありません。


この後、映画も小説も、先生が子供時代を語ることになりますが、
小説の方では、話が終わるまでは、先生と女の子は出てきません。

映画ですと中途で回想シーンから空き地のシーンに引き戻されるシーンがあります。


空腹で朦朧とした意識の中、川の向こうに「お母さん」と呼びかける。


空き地のシーンに引き戻されたとき、子供が呼びかけた方角にいるのは、橋本愛

別の場面なんですが、編集のつなぎ方によって、本来なかったはずの関係が生じてしまうのが映画というもの。

無論、この手法は小説では使えません。

そして、小説の方には、少女のほのかな母性というような色合いはないように思われます。



対話のシーン、釣り合いが取れているシーンは
二方の人物を  のように配置すると、つりあっているように見えるのですが、

この打ち明け話の終盤では、その構図が崩れてしまいます。
それはあたかも、先生の心の悲しみを女の子一人では受け止めきれないとでも言いたいようなバランスの崩れた画面構図です。


また
小説の方では、骸骨魚の意味について、わかりやすく説明されています。
自分の体の中に異物を入れることを極端に恐れ、できることなら空気でも食べて生きていたい、という先生のありようが、あの魚の姿なのですが、

映画の方ですと、かなりわかりにくいです。
回想シーンの冒頭で、水晶玉をなめているシーンがありますけど、
そういうのがあっても、なかなかわかりませんし、

また、女の子に金魚鉢を手渡すシーンでも、その中に骸骨魚の姿は見えません。

もし、骸骨魚がどんな意味を担っているかを映画の中でちゃんと説明していたら、このシーンには別れの意味が猛烈にこもってしまっていたでしょう。


「鮨に嫉妬はできないから」その台詞、ぼそぼそ喋られるのと、橋本愛の分かりにくい演技で供せられるので、意味が分かりにくいんですが、

先生には、その意味が分かっていたかどうなのかということですが、画面上の演技だけですと、分かってないと解釈してもいいと思います。

そして、骸骨魚がどんな意味でつかわれているのがを小説読んでから、考えてみると、
あの金魚鉢を渡した時点で先生は、引っ越ししようと心に決めてたんでしょうね。
リリー・フランキー小説家でもありますから、もちろん原作読んで参考にしているとは思われます。


拒食症で、異物を体の中に取り入れることを極端に恐れた子供時代のように、
他人の愛情を受け入れることを極端に恐れる中年の男。

そんな男をいやすことができないと悟る女子高生。

小説も併せて読むと、
そういう映画のようです。


小説を読んでから、リリーフランキーの演技を見ると、腑に落ちる点が多いんですが、つまり、役作りの際に小説利用してるってのが、ぽつぽつわかってくるんですが、
橋本愛の役の方は、小説とはかなり変更されていますので、
何回も繰り返してみると、リリーフランキーの演技って脇役の演技だという気がしてきます。実のところ、おっさんのキャラクターの内面の掘り込みは小説の中ですでになされているのですから、つるんとして、掘り込みが浅い。

見せ所は、橋本愛の方に集中しているんですが、

このシーン

鮨に嫉妬はできないでしょう
からこのラスト

鮨屋は何処にでもあるんだもの
まで、

橋本愛の声、ずっと泣いてるんですね。ものすごくさりげないやり方で、
特に寿司屋に場所が移ってからは、顔のはっきり映るカット一つもないですから、鼻すすりながら泣き声で台詞喋ってます。

あえて、泣いてる顔見せずに声だけで泣く、それも他者に気づかれないようにさりげなくなく、
演出のプランだから、と言えばそうなんでしょうけれども、

下手だから、直に演技見せないほうがいいかもしれないと監督が思ったのか知らないですけれども、

彼女って、こういう演技するんだ、と感心しました。

中途半端に発声矯正するとものすごく残念と思うとこです。彼女の声は慣れてしまえば、癖になる魅力がありますから。

また小説では、鮨を握っているのは父親ですが、映画では祖父が握っています。
小説と違って、映画の中ではどうして女の子がむさいおっさんに興味を持つのか一切語られないのですが、彼女は孤児で祖父に育てられたという設定が裏にあるとするなら、彼女は、母性を求めて満たされない寂しさの中に生きている男に対して敏感だったのでしょう、きっと。

十代半ばで母性愛の横溢したような女の子もいますし、能年玲奈みたいなそういうの一切封印された子供っぽいかわいらしさの女の子もいます。
橋本愛って、中途半端で未熟な母性を感じさせる女の子の役を演じると、ものすごくハマります。
『告白』で殺されてしまう女の子もそういう役でした。

そういえば、エヴァンゲリオン綾波レイもそういうキャラなんですよね。