映画の法則③   クライマックス

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。



映画のクライマックスはどのように画面が動くのか、についてですが、

黒澤作品『隠し砦の三悪人』を取り上げて考えてみたいと思います。



滅んだ武家の姫君が家臣とともに御家再興の為の金塊をもって友好国まで逃げる話なので、一言でいえる単純な物語で、目的も目的地もはっきりしているので、

その道中で迷走せずに、一気に突っ切ったら、物語は15分くらいで終わってしまう。

それゆえ、ひたすら迷走がつづきます。
あまりの迷走ぶりより
映画の画面は、右に進んだり、左に進んだりで、迷路のような複雑さを見るものに感じさせますが、
最初に言ったとおり、物語自体は「隠し砦の三悪人」は、ものすごく単純です。

そして、どうやって、この迷路を画面上に作り出しているのかというと、
本来脇役の凸凹コンビに、主役並みの待遇を与え、物語の進行をぐちゃぐちゃにしてしまうと言う手法を黒澤は用いました。



高貴な身分の方々は、−>の方向に進もうとするのですが、凸凹コンビは<−の方向に物語を進めようとするのですね。

で、この二組が一つの対立を示しているのですが、その外側にははっきりとした敵が存在する、図形的に表すとそういう物語構造です。

高貴な二人と凸凹二人は、敵味方ではなく、対立軸であり、ある意味トムとジェリーのように仲良く喧嘩を続ける間柄です。

自分のように、物語が画面上の右サイドと左サイドのせめぎ合いという観点からみていると、これは極めて分りやすいことなのですが、
そのような事に着目せず映画を観ていらっしゃる方には、凸凹コンビが自発的に進もうとしたときには、
「嫌な予感がする」以上の感慨はもたれないでしょう。

そして、なぜ嫌な予感がするのかというと、凸凹コンビがイニシアチブを取る時は画面が <−ネガティブ方向に動いているのですね。

見えてるもの見てないで、何が「嫌な予感がする」だよ、ボケ。とか思うんですけれど、
以前も書いたとおり、13ヶ月前には、私自身も、そのことに気がついていなかったのですよ。
、凸凹コンビの進行方向に色、欲、生きたいという本能を被せ、
三船とお姫様の進行方向に、禁欲的な物語の進行とハッピーエンドという役割を振り当てています。

こういう二項対立の画面組み立ての映画って、社会的メッセージをほぼ放棄しているという点で非常に爽やかですね。
どこにも、あざとい価値観洗脳の狙いが無いです。あるのはただ物語をどうネジくれさせるかの仕組みだけです。


とにかく四面楚歌でどっちに行ったらいいかわからない。うまく行ったと思ったら、実は間違った方向に行っていた。 同行者を信じていいのか分からない。 大失敗と思ったら、そこから道が開ける。 そんなことの繰り返しの中、

物語が爽快に進行する場面はわずか二箇所のみ。



1時間半ほどのところで、三船敏郎演ずるサムライ大将の身元が割れて、その正体を知った敵を馬で一気に追って切り殺し、そのまま敵の陣地に馬で乗り込む。



もう一箇所は、最後に敵国の関所を抜けて安全の地に馬を疾駆させる場面。


目的地に近づけない、目的地がどこか分からない、そういう映画は、進行方向に沿って動くことが出来ず、見ている側にも抑圧感がたまる。

それが、一気に−>方向への疾走の場面を見せ付けられると、
恐ろしく解放された気分になる。
しばらく我慢していた尿意を一気に開放できたような爽快感、まあ下品な言い方ですが
物語が進展することを、画面上のー>方向への移動として明快に示されている映画です。
そして、その爽快な画面上の動線は、物語が極めて単純である故に、極めて清々しくシンプルに描かれています。

「隠し砦の三悪人」は限られたの爽快感に賭けた映画でして。
いかに、これが気持いいかは、「隠し砦の三悪人」のレビューをいくつか読んでみれば、よく分かるだろう、と自分は思います。みんな同じシーンについて何か一言書いているのですね。


映画に於いてパクりとは何なのか?ということですが、登場人物の顔が似ている、物語の細部が似ているということを別として、
カットの繋ぎ方に類似性が見られるということもパクりの一つなのではないでしょうか?

『隠し砦の三悪人』で見られた、画面上の左右への迷走を繰り返したあとに、爽快に−>方向にポジティブに画面を進展させるクライマックスは、
E.T.』の自転車が空に飛び上がるシーンと同じに見えるのですが、どうでしょう?

『隠し砦の三悪人』では馬を疾走させるシーンが二回出てきます。そして『E.T.』にも自転車が空を飛ぶシーンが二回出てきます。


最初の空を飛ぶシーン。

そしてもう一箇所の自転車が空に上がるシーンでは、
空に飛ぶ前に 長々と <−方向への移動が続きます。

<−方向の移動は、本来の目的地が −>の方向の先にあるのですから、その目的地から遠ざかる、よろしくないものなのです。

自転車は、住宅分譲地を走る時は、大人達に追われていますので、舗装された道路を走る事が出来ません。
いわば逆境の中を延々と行くのです。

その後、逃げ場を失い、舗装路に出ます、

そして、ああもうだめだというその時、
自転車の進行方向は、さりげなく −>向きに変わっています。

この先んじた方向転換が、次に自転車が飛び上がる予兆として観客に提示されています。



ふわりと自転車は空に浮かび、


−>の方向に向かいます。


『隠し砦の三悪人』の馬の疾走シーンと『E.T.』の自転車が飛ぶシーンがそれぞれ二回づつである、ということに対して、
「だから,なんなんだ?」と思われる人もいると思いますけれども、

映画脚本の構成上、そういう爽快なシーンは二回くらいにしとくのがいい、という常識があるだろうこと以外に、

スピルバーグは、この映画撮る前に黒澤作品参考にしたんではないだろうか?と考えると、いろいろ納得できる点があるわけです。

三船=エリオット  お姫様=E.T.  凸凹コンビ=エリオットの身内
敵の侍=大人  としてみますと、物語構造似てるってのもありますけど、
自転車が空に飛び上がるまでのタメの作り方ってのが、私には黒澤作品からのパクりのように思えるのですね。

メロディーや歌詞をパクればすぐにバレますけれども、コード展開をパクっても「何か似てるなー」程度でなかなかパクリだとはバレないものです。
というか、コード展開を真似ることを世の中ではパクリとはみなしていないということなのでしょう。



スウィングガールズ
こちらの映画でも、主人公たちがダメ人間で、物事なかなか進展しませんが、うまくいき始める時は、こんな具合に一気に画面が動きます。



ジャズの「悟り」を得る前の普通の移動シーン。

ただ、この場面はビートルズアビーロードのパロディーであり、
画面から、何かがおこりそうだというニオイがぷんぷんします。
それが、すぐに続く、「ジャズの悟り」の前触れになっているようです。



ドジっ子本仮屋が、逆方向を見ます。
印象的シーンを作るには、青から赤への切り替えしが鮮やかであり、その方向転換が物語のターニングポイントとして示されることになるのですから、アビーロードの横断歩道からダラダラと赤方向に動くのではなく、その前に一旦青に画面を戻して、タメを作ります。
さあ、来るぞ来るぞ、というオーラが画面から流れ始めています。



「ジャズの悟り」を得てから赤方向に一方的に流れます。
スーパー前で一丁前の演奏をして野次馬に感心され、嫌気がさして逃げていった仲間たちが元に戻りバンドとして固まっていくまでの間、画面の方向は、人の移動や、楽器の角度や、観客の動きや、雪の舞う方向で示され続けます。
その時間、約5分間。非常に長いクライマックスです。




映画のクライマックス、もしくは名場面は、赤矢印でどんどん画面が進む場合が多いですが、逆に青方向にどんどん進む場合もあります。

このように、逆境に置かれているはずの主人公が、流れをぶち壊すように、画面の流れと逆方向に猛然と進行するパターンです。
このことを私的用語では「逆走」というのですが、物語の流れをぶち壊す=話が成立しない という危険を孕んでいますが、
上手くこの「逆走」を仕込む事が出来ると、映像の流れ的には、ものすごい快感です。
さっき、我慢した尿意を解放する快感と書いていますけれども、明らかにそれ以上の快感が画面の中にあります。
探せば、イロイロな映画で、この「逆走」をクライマックスに持ってきているのでしょうけれども、

『ロッキー』に登場していただきましょうか。
画面を逆に進行することで、それまでの流れを断ち切るという技法、映画が−>方向に進むのが当たり前という状況が成立してからの、いわば逆張り映画と言えるものですから、
古い映画にはあまりないんじゃないでしょうか。
ニューシネマ以降の、やさぐれたアメリカ映画に特徴的なクライマックスなりターニングポイントの盛り上げ方のように私には思われます。

ロッキーって、三流ボクサーがリングネイムが変だというだけで、タイトルマッチに出場が決まるという、とんでもないタナボタ物語です。
そして、当然のごとく、その試合はほとんど勝ち目がありませんから、上映時間を通して、延々と逆境が続きます。

その映画の中から印象的なシーンを選ぶとなると、あの有名なファンファーレが鳴り響くトレーニングのシーンですが、


ファンファーレと共にトレーニングする場面。
高架線の電車は−>に走りロッキーを祝福します

ついでに、工場の煙突の煙も−>に流れ、ロッキーを祝福します。

ロッキーのテーマは、いや、結果としてロッキーが描いてしまったものとは、ベトナム戦争で荒廃したアメリカの精神と経済を、チャレンジャー精神に立ち返り建て直すことであり、
ロッキー個人のサクセスストーリーのように見えはしますが、彼の挑戦と成功は其の他のアメリカ市民(基本的に負け組み白人ですけれど)への応援歌となっています。
そんなんだから、スラム化したフィラデルフィア市街地をロッキーが走る時、みんな彼を応援してくれるのですが、
でも、ロッキーを応援してくれるのは市民の皆様だけではなく、高架電車とか工場の煙でもあるのですね。

映画では、物事が順調に行っているときは画面が−>方向に動きます。トレーニングが順調に捗って、体が軽くなってきた、というのは−>方向で表されるにふさわしいのでしょうけれども、
いざ試合が近づいてくると、それはやはり不可能に近いことへの挑戦であるのですから、<−向きがふさわしのでしょう。


ロッキーは、一人孤高に<−の方向に走ります。

無理を承知でも男は戦わなくてはいけない時がある。そういうシーンですが、アホらしいと思っても、やはり感動的なもんです。











クライマックスに「逆走」を持ってきた映画で有名なものといいますと、『スターウォーズ』でしょう。
デススターの溝を無茶を承知で突っ走り、唯一の急所にビームを打ち込もうとする共和派のXウイング。
ルーク以外はことごとくダースベイダーに撃ち落とされていきますが、
あれらの動きはすべて<−

そもそも『スターウォーズ』は、その元ネタが『隠し砦の三悪人』ですから、物語展開は迷走に次ぐ迷走で、なかなか爽快な地点に至ることができません。

千秋実と藤原釜足R2D2C3POの元ネタと言われているんですが、
よくよく考えてみると、『隠し砦の三悪人』では、千秋実と藤原釜足がひたすら三船敏郎の行程を妨害し、上映時間を通して画面上に迷路を作り出していたのですが、R2D2C3POはそこまで重要な役を与えてもらってはいません。二人のロボットの役割はルークをレイア姫に引き合わせるきっかけを与えることだけなので、映画の序盤を過ぎるとほとんど影が薄くなってしまいます。
二人のロボットの行程も、『隠し砦の三悪人』にちなんで迷走を重ね、塞翁が馬的なものであるのですが、97年に改訂されたヴァージョンでは、二人のロボットの塞翁が馬ぶりが挿入された新カットにより強調されています。

小人にとらわれて万事休すと思われるも、結果としてはそれがルークと出会うことにつながる。

ルーカスってスターウォーズをとってから20年もの間、自分の映画を黒澤レベルに近づけたいとずっと思ってたんですかね。それ考えると、微笑ましい作品です。


ついでに、
どうして、私は、クライマックスで逆方向に画面を動かすことを「逆走」と呼ぶのかというと、
物語のそれまでの流れを断ち切るのが「逆走」でありまして、
生半可なことでは、そういうことはできませんから、必然的に激しい動きを伴ったものになるわけです。
そして、大抵、主人公が画面上を高速移動させられる羽目になっていますので、「逆走」と呼ぶのがふさわしだろう、と考えました。

時をかける少女




男の子に素直に自分の心を打ち明けないといけないと悟ったとき、主人公は画面上を−>に突っ走らなくてはなりませんでした。
全力疾走と結び付けられやすい「逆走」のクライマックスは、実際に走ることのできる体力を持った若者を主人公にした映画、それも青春映画に多いように思われます。



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