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藤子F不二夫の『ミノタウロスの皿』
主人公の進行方向が、←にあらかじめ決められているのがお分かりでしょうか。
マンガはページを←方向に繰りますから、
それに合わせるように、物語が進展する時に主人公は←方向に進み、停滞後退する場合には→方向になります。
「そんなこと気にしたことなかったけど、言われてみりゃその通りだな」と思われた方がほとんどではないでしょうか?
そして
実を言うと、映画・テレビドラマも同じように画面が構成されています。
まあ、どうしてそうなるのかについてはこのブログの『映画が抱えるお約束事』と『映画術』の箇所を読んでくだされば分かるはずです。
物語が進展する時に主人公は←方向に進み、停滞後退する場合には→方向になります。
映画・テレビドラマにしたところで、「そんなこと気にしたことなかったけど、言われてみりゃその通りだな」と思われた方がほとんどではないでしょうか?
そしてこのような←や→の方向の操作は、無意識的に受け止めてしまう故に、
「なんとなく…な気がする」という映画内での空気感、雰囲気、そして登場人物の心の奥を表現するのに非常に適しているようです。
まあ、感じられる、感じられない、というよりも、映画ってそう感じられる人のための表現であり、そう感じられない人にとって映画とは訳の分からない外国語みたいなものじゃないでしょうか?
画面に進行方向があるということは、 ←方向に物語が進展することであり、
また、
画面において時間が←方向に進むということと同じわけです。
だって、状況が進展するには、時間が必要ですから。物語が←の方向に進展するということは、時間も←方向に流れるということです。
映画の上映時間ってせいぜい二時間で、その中で数日間の物語もしくは数週間数年間の物語を語ります。
だから点と点を結ぶような省略法が映像表現の中で磨かれてきたのですが、映画の中で時間を端折れば端折るほど、画面の中の←向きの時間の流れは早く感じられるはずです。
『リンダリンダリンダ』のことを嫌いだという人もいるらしくて、その代表はどうやらブルーハーツに思い入れが強い人たちであり、彼ら彼女らは『リンダリンダリンダ』の軽いノリの中にはブルーハーツの重いメッセイジ性のかけらも見当たらないというようなことを仰っています。
まあ私、ブルーハーツになんの思い入れもないですから、別にどうでもいいんですが、劇中でジッタリンジンとか大馬鹿にされているじゃないですか、それと比べるとブルーハーツって尊重されてるんですけどね。
まあ、映画の題名を『リンダリンダリンダ』にするくらいだから、もうちょっとブルーハーツにすり寄るべきだったのかもしれませんけど、
まあそれはいいとして、この物語は何をテーマにしているのか?ということを画面の向きと流れから読み取ってみたのですが、
誰がどんな時に←を向いているのか。だれがどんな時に←へ進むのかを列挙していきますと、
この映画が、どんな要素を使って物語を進展させようとしているのかが分かります。
非常に邪道な映画の見方であるとは自分でも思うのですが、
本当のところは、映画監督やカメラマン、そして編集はこのようなやり方で映画の画面を作っていきますので、
映画を上手に語るには非常に有効なやり方なのですね。
まずこの人物がどこ向いているのかをチェックしてみましょうか
ブルーハーツのヴォーカルの弟である甲本雅裕氏。
ある意味、この映画の象徴的存在です。
その彼の目が見ている方向は 常に ←です。
私たちは、他人の目が気になって仕方がない。それは、相手が何を見ているかによって相手が何を考えているかがあらかた分かってしまうからでしょう。
それゆえ、映画の画面でも、登場人物がどこを見ているかに注目すると映画をよく理解できるのですが、
甲本雅裕は、←しか見ていない。
目を映さない後ろ向きのカットだったら
→向きもあるんですね。
でも、基本的に甲本雅裕は←を見ています。
では、他にはどんな人がどんな時に←を見ているのか探してみましょう。
甲本雅裕って、どういう属性をこの映画で担っているのだろう?
ブルーハーツの魂を理解してる人?大人?
じゃあ、大人は←を向いているという前提で、
大人の目線を映画の中で探してみましょう。
韓国の留学生を閉じ込める檻の役目をしている日韓友好クラブの顧問。
彼女も、←方向の目線のシーンしかありません。
じゃあ、大人は←の方向を向いているという事にしておいてもよさそうですね。
そうすると、この画面が雄弁に意味を語り始めます。
大人は←を向いているとするなら、
この画面が持つ意味が分かってきます。
そしてストーリーを絡めてこの四人のポジショニングを考えますと、
恋愛話の濃淡と女の子のポジションの順番が完全に一致していることに気づきます。
「女の子は恋することで大人になる」少女に萌えるおっさんが好みそうなテーマですし、おっさんが繰り返し映画や小説にしてきたテーマです。
そして、おそらくこの映画でもこの陳腐なテーマが繰り返されるのですが、陳腐であること自体が悪いことではありません。
おおかれ少なかれ私たちはみんな陳腐な人間ですし、高校生活って枠が決まってますから高校生活を題材にした物語はどうしても陳腐にならざるを得ません。
ぺ・ドゥナにマツケンから告白と呼び出しの手紙が来た時のポジショニング。
結局映画を通してベーシストには浮いた噂一つないままでした。
そして、未成年→←大人で画面上に対立軸を作り出しているらしい『リンダリンダリンダ』ですが、
画面上の青側と赤側ではどちらが優勢なのか、ということですが、
青側は中間線を越えて赤側を圧迫していますし、
赤の主力である香椎由宇にしたところで顔を伏せて前を向いていない。
大人になること つまり時間の流れですが、それが←の方向で示されており、それに抵抗することが→の方向で示されている、らしいのですね。
そんな風に画面を構成している映画ですから、最後のライブで『リンダリンダリンダ』を歌うとき、メンバーは皆→向きで演奏します。
それは、まるで『リンダリンダリンダ』を演奏しているときには、時間の流れを止めていつまでのこのままでいられるとでも言いたいかのようです。
そして、彼女たちがダムのように時間の流れをせきとめられている間にも、時は向こう側からやってきます。
バンドの演奏が始まった時に、←方向から学生が何人も何組も走ってきますが、
それがどうもせき止めているはずの時間の流れの比喩のようです。
観客の向きも←向きであり、
時間の流れをいつまでもせき止めていられるものではないと画面が言いたいかのようです。
そして、演奏が終わった時に、初めてぺ・ドゥナは←を向きます。
この時、4人がせき止めていた時間が流れ出します。
そして、時間が流れ出せば高校三年生なんてすぐに卒業してしまいますし、みんなすぐに大人になってしまいます。
そしたら、学生時代なんてすぐに過去のものですから、誰もいない校舎、
雨が降って気温が下がって秋になる夕方前の光景が画面には映し出されます。
粗筋だけをなぞっていますと『スウィングガールズ』と『リンダリンダリンダ』はものすごく似ていますが、
ラストのの演奏シーンが醸し出す情感は、まったく全然異なります。
別のシーンも丁寧に見て見ましょう
画面をこのような手法でベクトルとして抽象化すると、
たとえ二人で→方向にせき止めようと、カート押してる←のベーシストの方が強そうに見えます。そして、実際、その方向に画面は進むのですが、
『リンダリンダリンダ』は時間の流れと大人になることを←方向の流れとしている映画らしいのですが、
それゆえ恋愛話の一つも出てこないベーシストの画面上の定位置は→の端っこなのですけれど、
このスーパーの買い物のシーンと その後の家での食事のシーンでは←側です。
この映画、別に大人にならないことを肯定している訳ではないんですね。
恋をすることが大人になることの条件だとしたら、早く大人になってしまいたい。そんな風にベーシストの女の子が思っていたとしても全然不思議有りません。
そして、スーパーと食事しているときのくだりでは、本来大人のはずの女の子二人がやけに子供っぽくはしゃいでいます。
そして、この映画の女の子たちの立ち位置と顔の向きをチェックすると、
恋愛話が絡んでくると、←向きになるようです。
この映画、粗筋的にいうなら、「急ごしらえのバンドで学祭のステージを成功させた」それだけです。
そして、ステージを成功させるまでに特になにか問題はあったのか?寝坊して遅刻しそうになったこと以外に乗り越えるべき問題はあったのだろうか?という事ですけど、
別にありません。
そして、本当のことを言うと、その粗筋って、この映画についてほとんど何も語っていないという事なんですけれども、
この映画のゴールが『リンダリンダリンダ』を歌う事であるとして、そこに至るまでの紆余曲折というのは、メンバー間の微妙な意識のずれであり、それって個々人が抱えた恋愛に関することで、実のところメンバーは演奏している間もそのことばかり考えてる。そこをとりあえず束ねることが物語の乗り越えるべき問題なのですが、
映画は、大抵上映時間の70%くらいのところでいったん話を整理するような象徴的な画面が入ります。これからクライマックスへ向けて話を動かす前に、観客に分かりやすい画面を見せて頭の中を整理させるためだと思われます。
これは、上映時間60%くらいのところですが、
そういうことを考えながら見ていると、どうしてこのシーンで→方向にみんなで河原を歩いているのかがわかるような気がします。彼女たちは一体何に逆らっているのか?
学校に対してでも規則に対してでもなく、ましてや社会に対してでもありません。
まあ、そんなんだからブルーハーツのハードなファンからこの映画嫌われるのでしょうけれども、
彼女たちが逆らっているものは、時間の流れであり、彼女たち四人を束ねるものはその意識なのですね。
これだとちょうど70%のところです。
日韓友好クラブの展示室で 知り合いの子どもにダーツさせるところ。
大人と子供の立ち位置を示すテープが二本あります。
そして、主人公の立ち位置は、大人と子供の真ん中。
そこにやってきた香椎由宇。
子供から「ちがうちがう、こっちこっち」と言われ、大人のラインからダーツ投げさせられる。
むろん そのダーツの方向は←。正に光陰矢の如しです。
ここまで説明してくれたら、もう『リンダリンダリンダ』がどんな映画だか誤解することはないだろうと、私は思うのですが、
それでも誤解する人はいるんですね、残念なことに。
遅刻してくるバンドの為に、時間を止めてくれる先輩の演奏。
役の設定では、一年留年しているという事になっており、
時間の停止を象徴するような人物です。
そして、映画の画面を赤と青のベクトルとして抽象化すると、
この女子高生はどうして泣きそうな顔をして←を向いているのかもわかってきます。
ストーリー的には演奏に感動しているという事になるのでしょうけれども、
画面の構造的には、過ぎ去っていく今を止めることができないことに泣き出さんばかりに感情を高ぶらせているわけでして、
彼女たちの表情の演技から彼女たちの内面を観客は見ている訳ではなく、
画面の流れから、そういう風に思わされてしまうんですよ。
だから
どうして、この時に外では激しい雨が降っていないとならないのかは、もう誰でもわかるはずです。
「あなたは、映画を見るときにいつもこんなめんどくさいことをしているのか?」と言われますと、
大抵の場合、無意識的にこういう画面の解析を行い、映画のテーマに目星をつけ、そして、画面が作り出すベクトルの在り方から映画の泣き所を見つけて感動しているのですが、
映評やレビューでいいこと書いてる人は大抵似たようなことを無意識下なり意識上なりで行っているはずです。
そして、この程度のこともできない輩が映画評論家名乗るなよ&気取るなよ、と私は思っています。
P.S.もともとこのレビューというか解説、二年半前に書いたものの訂正版なのですが、
私が映画について語る場合、簡単な理屈を前提としてまず延々と語らねばならず、大抵書いている途中で嫌になってしまったいい加減なものが多いんですが、
この方のブログをよんで、『リンダリンダリンダ』があまりにも多くの人から酷評されている事実に気がつき、
それゆえ、絶賛する側としてもうちょっと丁寧に書かないといけないなと思い立って、訂正しました。
二年半で私も映画の見方がかなり洗練されてきましたと実感。