イメージの世界

子供に夢で見た光景を絵に描かせると、夢を見た当人がその絵の中にいたりする

また夢とはいわずに、夏休みの絵日記でもいいんですが、体験したことを絵に書かせれば、ほとんどの場合自分の姿がその絵の中に描かれるものです。

いわば、彼らは主観目線にあまり捕らわれていないということであり、普通の大人は、そういう態度を子供っぽいと考え、絵日記に自分の姿を描くことをやめ、さらには絵日記さえ書く事をやめてしまうのです。

日記は文字で構成されるのが普通ですから、絵を描かない文字の世界は主観目線だけ出てきているのでしょうか?

もしくは図や映像で表現しようとすると、自然と自分の姿がそこに加わるものなのでしょうか?

『湖中の女』という主観目線だけで撮影された映画がかつてありまして、これが絶不評。そしてそれ以降そのような無謀な試みに誰も挑んでいないということは何を表しているのでしょう。

主観目線と言えば、AVではかなり主観の割合の高い撮影もありますけれども、それでも完全主観目線の撮影をつらぬいたものってあるんでしょうか?
また、ゲームでは主観目線のモノって面白いんでしょうか?コックピットもののアクションゲームって面白いんでしょうか?


話は変わりますが、中田英寿、元日本代表ミッドフィールダーですが、彼は試合中を通して鳥瞰図のようにフィールドのどこに誰がいるかを頭の中にイメージし続けていたといいます。優れたミッドフィールダーならみんな多かれ少なかれそうでしょうけれども、常に視線を周囲におくり、ボールの流れとプレイヤーの足の速度から、刻々とその鳥瞰図を頭の中で更新し続けると言われており、それは確かにすごい特殊能力ではありますが、
全く一般人からかけ離れたものなのかというと、我々はすべて似たりよったりのことを日常生活で行なっているのではないでしょうか。

例えば今のあなたですが、PCの前に向かっているのかそれともケータイに向かっているのか走りませんが、あなたの目は左右に一個ずつついておりそれによりあなたの視界は左右に広く取られています。
だいたい150度くらいですか、角度にして。そして上下の角度は100度位ですか。

膻縦その程度の角度しかあなたの目には見えていないのですが、その視界の外に何があるか誰がいるかは、あなたはだいたい分かっているでしょう?もし、視界の外から突飛で予想もつかないものが飛び出してくるとしたら、あなたは今にも怖くて仕方がないのではないですか?
例えば、半開きの押入れのドアの向こうに何がいるのか気になって、だんだん怖くなってくるなんてことはあるでしょうけれども、普通はあなたは自分の周囲の360度だいたい何があるか認識して安心してそして退屈な毎日を送っていると思います。

どうして人間は、視界の範囲をはるかに超えた全方位を分かっているような気持ちになっていられるのか?

ひとつには、人は視線を移動させることがものすごく簡単なんですね。ちらっと横をむいたりすることに何の苦労もいりませんん。
これを映画の主観目線としてカメラを素早く動かしたところで、相当に手ブレしたりして見ていて気持ち悪くなるはずですし。
人間の周囲に対する認識というのは、視覚だけでなく、肌触りとか物音とか、継続性つまりさっきあったものは撤去しない限りそこにあり続けるということですが、そういうことにより支えられています。即時的に網膜に映る光景を認識しているだけでなく、網膜に映る光景はあくまでも有力な第一手掛かりとして自分の周囲を認識しているのが人間というものでしょう。そう考えると、中田英寿の鳥瞰図能力は優れたものではありますが、あくまでも普通の人の能力の延長線上にあるものだとわかるでしょう。
だから映画でいきなり見も知らない環境を画面に映し出したとしたら、目に見える部分以外のことはほとんど観客には知覚できないではないですか。だから登場人物の主観目線を超えた客観目線の覗き穴のようなカメラ撮影が必要になるのだと私は思います。

だから例えばサラリーマンネオで生瀬勝久谷村美月のギャル社長のコントがありますけれども、生瀬勝久の心理的同様を表現するために、彼をアップで移すときに細かくカメラに手ブレをさせているのですが、それは主観目線の動揺ではないのですね。別に見ている私たち動揺していないですから。あれは生瀬勝久の心の動揺を表現したものであり、生瀬勝久の内面を表現しているにも拘らず彼が画面に映っているのです。
そしてこういうことは人間の認識にとっては別に異様なことでもなんでもなくて、子供だったら絵日記上でいつでもやっていることですし、大人になっても夢の中に三割増しで美化された自分自身の姿をみとめたりしていませんか?

そういえばドラマ『ハゲタカ』の中では、登場人物を映すカメラが手ブレをするとき、それはその人物の心の動揺ではなく、見ている私たちの動揺、つまり日本の旧来のルールがこわれていくことにたいする同様を示す動揺になっていました。こういうのは露骨に洗脳的な手法なんですが。

この客観目線カメラを文学での客観的な描写を神の視点と呼ぶことから、同様に呼ぶこともありますけれども、あくまでもそれは人間の認識能力にそぐう形のものであり、神の目線とはいえないだろうと私は思います。
もっとも神がどのように物事を認識しているのか、どこにカメラを配置しているのかが私には全く理解できませんから、最初から客観目線のカメラを神の視点を呼ぶことには猛烈な違和感を感じざるを得ません。




そしてもうひとつ言えるだろうことは、空間認識だけではなく、時間の認識についても同じことが言えるのではなかろうかということですが、
私たちは、今現在を知覚して生きているのですが、それは即座に過去となって過ぎ去っていきます

まあ記憶しておけば過去がどうであったということはデータとして頭の中に保持され、それを元に私たちは今のあり方が過去に支えたものであるとして、「今現在」を認識しているのだろうと私には思われます。

人間の語彙を考えても、時間を表現する言葉、前とか後ろとか後とか間とかは、すべて本来空間を表現する言葉でありまして、これは人間は空間を認識する能力を獲得したあとに時間を認識する能力を獲得した、もしくは幼児の発達は其のようになされているだろうことの証であると私には思われます。
時間は目に見えないものですから、そして抽象的と言えるかもしれません。そういうものを表現するにおいて、私たち人間は空間を示す語彙を流用しています。

そしてそれと同様にさきほど私が述べた空間を認識するのと同じようなやり方で時間を認識しているのではないでしょうか?
我々が今感じている現在というのは、我々の目の前の限られた視界にすぎず、それ以外にも我々は大量の過去のデータとそこから類推される未来の予想の中で「今現在」というものを認識している、もしくは時間というものを流れとして認識している、
そのように考えると、私にとって映画が人類を百年以上引きつけてきたことの理由がわかるのですね。

普通の映画の移動シーンというのはこういうものですが、




すべての移動場面を映していては、話がだれる、二時間で終わらない、省略可能なことは省略すべしということなのでしょう。
このように移動の点と点を抽出して並べてみせます。こうすると移動という行為に一貫性が維持されているように見えますが、この省略が一般的であるということはすなわち、時間も画面の中を流れているということになります。
点と点の移動カットの間には、ほとんど代わり映えのしない移動時間が省略されているわけですから。そして映画は二時間弱の中で数日間ときには数年間の物語を語るのですが、そうなると現実の数百杯数千杯の速度で時間が<−−の方向に流ていると考えてもいいのではないでしょうか。そしてそのありえない高速の時間の流れというのは、観客の目には残像として残っており、常に諸々の画面上の事象の認識にたいして大きな影響を与えているのではないでしょうか?


私は、このブログのほぼすべての回で画面の中には目的の方向が決められており、そこへ向かうことはポジティブそこから離れることはネガティブという二進法が映画であると書いていますが、
左右への動きをポジティブとネガティブに分離させる一番の大きな力というのは、もしかするとこの映画画面上の時間の感覚なのではなかろうか?
そして音楽ビデオの回で書いたのですが、物語とは過去と未来があって初めて成立するものであり、現在しかないものは即時的な刺激に過ぎないということですけれども、
過去とは記憶であり、未来は論理的推論であって、物語には、そこに現在の手触りというか感覚が加わるものであろう、とこむずかしいことを考えて、だんだん頭がこんがらがってまいりました。

だから、物語を捨てたときに、映画はより一段高みに上ることができるのか?というと、私は極めてその論に懐疑的であります。