ロックという音楽ジャンル、ほぼ終わりかけています。
ジャズという音楽ジャンル、ずっと終わってある種のBGMとして扱われています。
クラッシック、伝統芸能として生きており、百年間なにも新しいことが行われていません。
一つのジャンルは、その可能性と限界が客観的に見られてしまった時点で、もう天才が一生のエネルギーを注ぐジャンルではなくなってしまうのでしょう。
発展途上で無限の可能性に賭けることができるから、天才を引き付けることができるわけで、
限界が見えてしまうと、もう、そのジャンルって終わりなんでしょう。
もしかすると、映画も そういう段階に入っているのでしょうか?
わたしは、そうなんじゃないか、少なくとも 二時間程度で何がしかの物語を映像で語るというスタイルには可能性よりも限界の方があらわになっているような気がします。
ネットで、アメリカのベスト映画について検索すると、 『市民ケーン』か『ゴッド・ファーザー』が一番になっているのがほとんどです。
「どの映画がベストか?」と尋ねられた場合、答える方は自分に影響の大きい映画、すなわち自分が若かったころに見た映画を上げるのが当たり前ですから、
歴史上ベストな映画って、時間がたつにつれて変わっていくのですけれど、
それゆえ『ダーク・ナイト』とか『ショーシャンクの空』が上位に来るのですが、
『市民ケーン』で70年前、『ゴッド・ファーザー』で45年前、
若い時に『ゴッド・ファーザー』見てた世代でもぼつぼつ死んでいる訳でして、
今後、ベスト映画を選出したときに、新しい映画がトップになるのだろうか?世代とともに最高の映画は移り変わるのだろうか?という事に関しては、
「もうないかもしれない、映画は新しい可能性よりも限界の方が露わになっている」と考えた方がいいのかもしれません。
まあ、それはいいとしまして、今後『ゴッド・ファーザー』が歴代ナンバー1を保持できるかどうかはともかく、
映画音楽としては、『ゴッド・ファーザー』を超えるものは出てこないのではないか?
わたしには、そんな確信めいた予感があります。
『ゴッド・ファーザー』のオープニング
「わたしはアメリカを信じています」
暗闇の中から、誰かが語り掛ける。
誰が、この台詞を どんな状況で言っているのかがまだわからない。
それゆえ、
「わたしは、アメリカを信じています」は、普遍的な意味であり、少なくともアメリカ国民すべてには思うところのある台詞である。
「富を私に与えてくれました」
暗闇の中から 葬儀屋 ボナセーラの顔が浮かび上がる。
ほとんどカメラ目線に近い真正面からのカット。
このような構図の人物の言葉は、劇中のどれかの登場人物に言っているというよりも、観客の一人一人に直に言っているように感じられる。
ボナセーラ イタリア語で Good Night つまりこんばんはの意味
「娘をアメリカ風に育て、自由も与えました。
家の名前を汚さない限りは」
だんだん、台詞が普遍的なことから、イタリア裏社会の個別的な話題になっていくにしたがって、
ボナセーラの顔は小さなっていく。
しかも向かって右側に寄っていく。あたかも向かって左側に、この話を聞いている男がいるとでも言わんばかりに。
そして、左側にいる男は、アメリカ国民が信じるアメリカの栄光の裏側を生きてきた男。
これは、映画の始まり方としては、完璧です。
そして
「わたしは、アメリカを信じています」
こんな台詞で映画が始まることを許された時代、もしくは瞬間は、今後もうないのではなかろうか、私はそう思います。