『甘い生活』 神はたぶんいないけど天使は確実にいる

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)もどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。



この法則から『甘い生活』をみてみますと、
<−の方向に画面が逆行する映画であり、主人公は、ネガティブなポジショニングで、流されるだけで物語の中で目的を追求することがほとんどありません。

冒頭の有名なキリストを運ぶシーンですが、

ヘリコプターは、ネガティブな<−方向に進みます。

そんな映画ですから、ネガティブで退廃的な生活を描いたとりとめもない作品と感じられる人もいるでしょうけれども、
時には、主人公のマルチェロは改心したりすることもあるのです。
突如、思い立って教会に走りこむと、知り合いの文化人がいて、彼から温かい言葉をかけてもらえます。

まんまと、ポジティブの方向を向いたポジショニングです。

仮にですが、マルチェロ−>の方向を向いている時には、彼は前向きに世界をみている、と言うことにしておきますと、
この映画の表現している内容がはっきりしてきます。


パパと話しているときは、マルチェロはポジティブなポジション。
つまり、家族、家庭はすばらしいもの。

浜茶屋で執筆。ウエイトレスの掛ける音楽がうるさいから止めさせた。


鼻歌もやめろとか、邪険な態度。



しかし、女の子の素直な態度に、歯切れの悪いマルチェロ


女の子にお詫びの代わりにやさしい言葉をかけるマルチェロ
ポジティブな画面の位置に移動している。彼の視線の向こうには、本来物語の目的があるはずなのだが、


彼の視線の向こう側にいるのは天使のような美少女。

冒頭のキリストのシーンといい、神を見たという子供達の話しといい、非常に宗教に対して懐疑的な印象を与える『甘い生活』ですが、
天使の存在に対しては、全く何の疑問も持っていないようです。

そして、この美少女をみる時のマルチェロ−>向きでありますが、
それぞれの行きずりの女との関係に於いても、時々マルチェロは、−>向きであるのですね。
このような画面で見せられると、マルチェロというのは、たとえガールフレンドとの関係はむちゃくちゃでも、女性に対して非常に崇高な物を求めている、という風に見えてこないでしょうか?


甘い生活』が難しい、わかりにくいというのは、この映画が説明をはしょっているからというのがありますけれども、それ以上に、日本人にとってイタリア人の思考パターンというものが未知であるからだと私には思えます。

女の人にだらしない、表面だけみていればマルチェロはそういう人物なのですが、実のところは、女の人にマリア様二でもふさわしいような過大な物を物を期待してしまうだけに、好きになる瞬間だけは、ものすごく純な気持ちでいるのでしょう。ただ、人間関係が現実味を帯びるにしたがって、女との関係はバカらしい物に思えてしまいます。

イタリアの男達は100%マザコンだといわれますが、こういう精神構造なのだろうと、わたしは勝手に思い込んでいます。

この映画に、父親は出てきますけれども、母親は出てきません。母親が心理上は偉大すぎて登場させることが出来ないとでもいわんばかり。

さらに難しいのは、カトリックの問題です。50年前のイタリアでカトリックを茶化す、否定するような表現は果たして受け入れられたのでしょうか?
私達日本人は無宗教ですから、この映画がキリストの存在を否定しているように見えてしまうのですが、実のところどうなのでしょうか?

非常にいんちきくさいエピソードであり、聖母を見たという子供達は<−とネガティブな方向に歩いています。

それをテレビで撮影する側も非常に胡散臭いのですが、
それがキリストの否定につながるかというと、

敬虔な態度の人は−>をしっかりと向いています。

そしてこの場に居合わせる群集たちも、単一な方向ではなく、−−><−が入り乱れています。


このエピソードで死亡する老婆ですが、彼女はしっかりと−>の方向を向いています。

このエピソードは日本人にとっては、キリスト教を否定する物に見えてしまいがちなのですが、イタリア人的には、神の存在というのは、もしかすると嘘かもしれない、でも、神の存在を信じる敬虔な心は疑いの余地も無く存在する、ということなのでしょう。


神はいないかもしれないが、教会を建ててまで神を敬おうとする心は確実に存在する。


この映画を都市の退廃を描いた作品のように解釈する人もいますけれども、私からみれば、これはポジティブ要素とネガティブ要素の協奏曲のような構成になっています。

タイトルの『甘い生活』というのは、そんなに否定的なニュアンスを持つ言葉でしょうか?
幸せな生活でもすばらしい生活でもないけれど、そんなに悪いもんじゃないというニュアンスを私なんど感じてしまいます。

退廃なんていいますけれども、この映画の十五年前までは戦争やらファシズムやらで、退廃的な生活を送ることさえままならなかったのですから、この状況はそんなに悪い物ではないでしょう。

ファシズムに比べれば、毎晩夜遊びしているパパラッチの生活はそんなに悪いもんじゃないという感想ですが、

私にとってみれば、このラストも、別に絶望的なものでも何でもありません。
天使が与えてくれるはずの救済を受け入れられず、去っていく罪深い人々、そのようには私には見えません。



女の子の変なゼスチャーが可愛らしい。


「何言ってるのかわかんないよ」


結局、天使の側に行く機会を失い、俗世の友達のもとに去っていくマルチェロ。でも、その進む方向は−−>とポジティブ。


別れの挨拶に、手を振りはしたものの、天使は、ずっとマルチェロの行く先を見守っている。

結局人間は、人間である限り天使の側に住むことは出来ない。それやろうとした文化人の友人は自分の子供殺してから自殺したじゃない。
人間の居場所というのは、希望と絶望のない交ぜの俗世間の垢にまみれたこの世界しかないのですから。

甘い生活』から、退廃と絶望以外に、ポジティブな要素をきちんと読み取っていくと、ラストシーンの解釈は以上のようなものになります。

甘い生活」が絶望の表現であり、それから吹っ切れたのが『8と二分の一』のように考える人もいますけれども、それは間違っている。どっちも同じことを別のやり方で表現しただけです。
映画作るようなめんどくさいことを、絶望一色で成し遂げられるわけないでしょ。絶望だけを表現した映画、そんなもんありえませんわ。