味覚を味覚以外で表現すること

  


グルメ漫画の類って、疑問に思ったことないですか?

漫画読んでいても、味分かりません。
更に言うと、匂いもありませんし、音もありません。手で触れることも橋でつまむこともできないですし、あったかさとか冷たさもわかりません。
一応目で見てわかるんですけど、白黒で色ないですし、しょせん漫画で、実物のくいものと違うじゃないですか。

そんなもん見て、何が面白いのよ。とか思うんですけど、グルメ漫画って、面白いもんは面白いんですわ。


花のズボラ飯

本当のこと言うと、何やったところで、漫画で食い物を表現することってできないんですから、
主人公の食欲をひたすら描き、その食欲に読者を共感させることで、「グルメ」漫画(最もずぼら飯ですけど)を成り立たせようと割り切ったところが、清々しいと私には思えます。

全然うまそうじゃないんですけど、食欲に関しては、実に清々しい。

多かれ少なかれ、グルメ漫画は、このテクニックを用いています。
主人公の食欲を描くこと、または主人公の満足感を描くことで、
食べ物そのものを描く事の代わりにしています。

手塚治虫文化賞の短編部門の『酒のほそ道』もよくやる手です。

美味しんぼ』は、ストーリーをがっしりと作り、薀蓄を山ほどのべ、料理の視覚的インパクトを表現するために、料理だけいきなり劇画調で表現する等、ある意味漫画っぽくないんですけれど、

食欲を表現することで、料理の味の表現に代替するテクニックを使うことも時々あります。



こういうの見てしまうと、食欲と性欲って、核の部分では似たようなもんなんだな、と。



フランソワ・トリフォー監督作の『野生の少年』で取り上げられた、アヴェロンの野生児ですけど、

幼児の時に、人間社会から隔絶されてしまい、言葉を覚えることもなく生きて中年で死んだ人なんですが、
この人は、映画の中では少年期のことしか描かれていないですが、
実話だと、大人になって、性欲が高まって来ていたはずの年齢では、何かただそわそわして、怒りっぽくて、性欲をどう扱っていいのかわからなかったそうです。

人間って、性欲の使い道を教えてもらわないと、うまく使えないらしいんですね。
性欲は、強姦とかそういう破壊的な使い方をしてはいけない、相手の同意を得ないといけない、殺伐としたあり方でなくちゃんとしたコミュニケーションの形を取らないといけない、そういう風に社会的に教育を受けないと、うまく使えないものらしいです。

性欲と食欲が似通っていると、数行上で私は書いていますけれども、
食欲は、へその緒が切れた瞬間から私たちは持っています。私たちにとって食欲とは性欲より自然で馴染みのあるものらしいです。
だから、性欲を表現するときに、「飢えてる」とか「喰っちゃった」とかの食べる事に関する語彙を使うでしょ?
それに対して、食べることに対してセックスの語彙を用いることってあります?
「牛丼でシコった」とか、「焼肉でエクスタシー」とか、ないでしょ?そういうの。

夢の話 『SUNNY』松本大洋


Sunny 2 (IKKI COMIX)

Sunny 2 (IKKI COMIX)


夢の中で、僕は女の子の部屋の中にいました。
その部屋には大きな本棚があって、隣には6段のタンスがあり、テレビ台の上にはブラウン管の古いテレビが置いてあったけれど、コンセントの電源が入っていない。

机の上には花瓶が置いてあり、そこには水が入っていなく、さされた花は茶色く干からびていて…、

昨日このような夢を見みたとしましょう。
そんで、この本棚に本は詰まっていたのでしょうか?

本棚があるということは認識していても、そこに本があるかどうかについては不明ということは、
夢は全て見た人の頭の中で作られるということを考えても、

本棚に本はなかった、という結論が妥当なんではないでしょうか。
夢の中で、あなたが本棚をちゃんとチェックする気がなかった。チェックするような流れを夢の中に作り出さなかったという時点で、本棚の中の本を作り出す気があなたにはなかったということなのでしょう。


つまり、夢の中においては、見なかったもの触れなかったものは存在しない。
完全な唯識論の世界です。


もちろん、こんな唯識論は夢の世界の論理にすぎず、
現実では、見えなくても存在するし、聞こえなくても触れることができなくても存在します。



ただ、面白いのは、漫画とか映画ですわ。


漫画の世界じゃ、めんどくさい部分とかを大胆に省略して白いまんまにしておくことがあるんですが、
何を省略すべきなのかというと、
描くのめんどくさいからといって省略するのは多分正しくないのでしょう。

省略すべきなのは、さっきの本棚の中の本の有無のように、どうでもいいと認識してしまった場合には空白と同じなのですから、そう云う部分を躊躇なく略す。

そうすることで、漫画って、読者の意識の流れを恣意的にコントロールできるものらしいです。

「ほら、あそことあれに注意して。それが大切なものだから。そしたら必然的にこんな気持ちがするでしょ」
漫画って、省略したり、執拗に書き込むことのアンバランスさによって、こんなふうに読者の心操ってるわけです。


漫画って夢の世界に似ているよな、というか、夢って個人個人が毎晩描いている漫画みたいなものかもしれない。


Sunny 第1集 (IKKI COMIX)

Sunny 第1集 (IKKI COMIX)

松本大洋は、ガリガリと細かく書き込む絵の見事さを売りにしていたように私は思っていたんですが、
『sunny』では、むしろ何も書かれていない白地の部分がものすごく雄弁になっており、
それって、私たちが毎日見ている夢の光景に非常に近いと感じた。




それと比べると、映画って、漫画みたいに非現実的省略をしたら、その部分が目立ってしょうがないですから、
しょうがないから、本来認識にいたらないようなところでもリアルに作り込み移しこまないといけないもんです。

そんで、本来、観客の視線がいたらないような無意識的に流してしまうような箇所に、
サブリミナル的なメッセージをポンポン配置していくのが、映画の心理操作の技法というもんです。

さっきの夢のなかの本棚の中の本で言うと、
観客も登場人物もその本の背表紙なんかに気を止めていないはずなんですが、
そういうところに敢えて、いわくありげな本を並べておいたりするのが映画というものです。


説明的な芸術が常に行うテクニックはこういうもんで、
観客の視線と意識をわかりやすいところに誘導し、その陰の目につかないところでメッセージを伝え、そのメッセージに無意識的に観客を同調させる。
つまり、奇術師が右手を大仰に振り回してそこに注意を集める影で、左手はこそこそと白い鳩を羽ばたかせる準備しているってやりかたです。

マンガのはしょり方

室内装飾でも、服装でも、色彩数を三色に抑えることが肝要。それ以上使うと散漫な印象が生じる。


そういう文章を読んだことがあります。確かに、それって実感湧きますわ。

趣味いいと言われる建物や、部屋や、ファッションって、そういうもんですし。


漫画だと、ドラえもんは、白と縦線とベタ塗りの三色。


テレビだと、空白と同じ色のはずの白が、やたらと自己主張が強い。


なんでそうなるのかというと、
おそらく、人間の脳の処理能力では、現実をありのままに見ることができないので、記号化して情報容量を端折ることがどうしても必要らしいのですが、

まあ、こういう認識能力の限界が、言語というきわめて優秀な記号を生み出したのだろうと私は思っているんですが、

人間は、常日頃、大量の情報を無視して生きているわけです。300メートル手前ですれ違った他人のメガネのフレームの色なんて絶対覚えていないでしょ?



人は、個人の文脈に沿って、非常に多くの情報を捨て去り、自分にとって必要であると思われる情報だけを取り入れているようなのですが、

マンガに於ける省略と強調って、そのプロセスを他者に押し付ける技法なのだろうと私には思われます。




簡単に言うと、私たちは、自分にとって重要だと思う情報を意識し、どうでもいいと思った情報についてはシャットアウトしているらしいのですが、

この取捨選択が、その人の個性である、その人の心の動きのありようであると言えるのかもしれません。

だから、漫画にしても映画にしても、小説にしても、そういう取捨選択のモデルケースを読者観客に強要することで、つよい共感を呼び起こしているのだろうと思われるのですが、


マンガって、全ての視覚情報を絵にしていたら、まどろっこしくてやってられないんで、いたるところで端折ったりしているんですが、


セオリー的にどういうものを端折るのか、ということについては、時代の流行というものもあり、漫画のジャンルの性格というものもありそうです。

わたくし、少女漫画ほとんど読まない、読めないのですが、あの省略の仕方を理解することは、今後女性と良好な関係を気づく上で役に立つことかもしれません。

でも、あの、自分と相手しか視界に入っていないような自己中ぶりは、私には辛い。
基本、遠近感ないですしね。
第三者との距離感の取れない女性ってむちゃくちゃ多いですし、ね。




人生の何を間違ったか、わたしは、グルメ漫画ばかり読んでいるという人間になってしまった、もしくは、漫画での食事シーンばかり熱心にチェックするという奇異な人間になってしまったのですが、

グルメ漫画は当然としても、そのほかの漫画でも、食事シーンにおいて、皿の数を省略する、コップの数を省略するということはほとんど行われておりません。

常に律儀に、会食する人数分の食器と箸、コップがテーブルに並べられています。

これって、書く側にとっては非常にめんどくさいよな。
もしくは、食事シーンのエキスパートがいて有名漫画家のアシスタントいくつも掛け持ちしている人がいるのかもしれないと思ったり、

ホント、食事シーンって手抜かないですわ、漫画家のみなさま。


しかし、そんでもね、
例えば藤子Fですが、もの食ってる場面、例えばどら焼きとかですが、そういう場面はいくらでもあるんですが
会食のシーンというのはほとんどありません。

皿や料理書き込むのがめんどくさいんでしょうね。

美味しんぼ』によるグルメ漫画ジャンル確立以降の傾向じゃないでしょうか、この、会食シーンでのテーブルをひたすら細かく書き込む傾向というのは。



そんで、普通の漫画が、日頃何を一番はしょっているかというと、遠景。
人間の目ってピント合わせるようにできてますから、ピントあっていないところってのを表現するために遠景を飛ばすってのは普通なんでしょう。

それから、人の顔。
意外なんですが、人間って人の顔つまり人の心が一番気になるくせに、人の心って情報量多過ぎるゆえに、大概無視しているもんらしいです。
それゆえ、単なる通行人なんて、漫画ではのっぺらぼうです。そして、これは私たちの日頃の心のあり方そのものなのでしょう。面識のない他人なんてのっぺらぼうと同じです


それ考えると、会食って、無関係の他人とやるもんtは違いますんで、みんながみんな楽しむ基盤が用意されているのかどうかをしっかり表現しないといけないものらしくて、ほんと律儀に皿やコップが書き込まれます。
こいつのコップは端折ってもいいやみたいなことは、深刻な問題引き起こしそうです。


まあそれはいいとして、
ドラえもんを読んでみると、会食のシーンは、ほとんどないのですが、
その代わり、藤子Fが一貫して書き込んできたものは、樹木、庭木ですね。

室内装飾なんて、彼は、ほとんど空白で済ませているんですが、樹木庭木はひたすら書き込んでいます。
なんでこんなところの遠景、屋根瓦を執拗に書き込んでいるの?と不思議に思ったりすることもありますが、

藤子Fは、樹木書き込まないと気がすまなかった人らしい。

何は省略しようとも、庭木のたぐいは、とりあえず描き込む藤子F。


それはどうしてか?と私は考えるのですが、
彼は富山県高岡の出身で、漫画家になるために上京するのですが、
上京して、高度経済成長の東京が砂漠化していく中で、彼がひたすら描いていた少年漫画の世界には、どうしても、彼自身の少年期の緑の光景が必要だったのではないでしょうか?


高岡古城公園 藤子Fの実家の近所。

まんが道』でも、二人でよく散歩している場面がある。

マンガの見方

人間の目のつき方って、左右に一個ずつで、両目が離れている分だけ、上下よりも左右に対しての方が視界が広いです。

人って空飛ぶわけじゃなく目の高さ固定して歩くのが専らですから、上下方向よりも水平方向に視線移動させる必要の方が大きいです。

そんな理由から、左右に視線を動かすことのほうが上下に視線動かすことよりも自然なんでしょう。

世界的に見れば、圧倒的に左右に文字を並べる言語の方が多数派です。
それは眼球の構造に理由があるわけでして、

中国周辺国では縦書きが主体でしたけど、その本元の中国でさえ、現在の活字表記は左から右の横書きになってしまいましたし、
モンゴルやベトナムなんかは、アルファベットつかって言語表記するまでに至っちゃいましたん。

日本くらいですか、縦書きに固執しているのは。そんでもネットの文章は、完全に横書きにしてやられていますから、近い将来完全に日本語も横書きが主流になるでしょう。


フクちゃんの作者、横山隆一の作品。
四コマ漫画を並べたように、縦の方向に読んでいく漫画。

東海林さだおサトウサンペイといった、新聞向けの四コマ漫画の作者は、長編マンガでも縦書き。
これは、新聞や週刊誌といった縦書きの活字が組まれる紙面の片隅に漫画が掲載さる場合の整合性から、縦方向に読む漫画になったのだと私は考える。


しかし、縦に読むということは、人間の目の構造からは不自然なので、マンガでは右から左に読んでいくのが圧倒的に主流です。

戦前のマンガ『のらくろ』右から左に読んでいく。左端に着くと下に降りる。
左右の逆はあるものの、このケータイのマンガの読み方は活字の読み方に近い。

ほとんどの場合、各コマの大きさは均一。四コマ漫画を横向きに描いただけとも言えるが、
絵巻物のことを考えると、このスタイルは、伝統に沿ったものと考えられる。


清明上河図』 中国で一番有名な絵巻物。
北宋の首都開封の街の城門から宮殿までの光景が <ーで描かれている。

今現代の漫画と比べてみると、のらくろのコマ割の「変さ」かげんというのは、各コマが均一であるだけではなく、縦方向に視線が動く切っ掛けが与えられていないことだと思われます。

今の漫画は、横方向だけでなく、縦方向へのコマの流れがあるので、ページ上を行き交う視線の流れは、縦横無尽ではるかに視線のうねりが大きい。

この視線の動きの自由さ度合いが、マンガのリズム,マンガの生理的な心地良さになっていると思われます。



このようなコマのつなぎだと、絵巻物と同じで、右から左へ、そして行き詰まると下へと、何の疑問も感じません。


そんでも、こういうコマ割りに出くわすと、どうしたもんでしょう?そして、私の見るところでは、マンガってこのコマ割りが鍵なんですわね。

「こんなふうに読むんでしょ、あったりまえじゃない」

そう安直に思い込んでいるとしたら、そういう人って、あんまり頭良くないでしょう。

なんでかというと、どんな順序でコマを読んでいくのかを作者が明確に指定したいときは、

この方式でコマをつないでいくんでないですか?

もしくは、本気で、読む順番を指定したいんだったら各コマごとに数字で順番入れていくはずです。

『フクちゃん』とか『のらくろ』には、コマに数字がちゃんと入っているんですわね。大昔の漫画って、読者が漫画読み慣れていなかったから、その順番でコマ読んでいくかについての番号がふってあったんです。


つまり、この手のコマ割りって、どの順番で読んでいくかについての強制力が、半分壊れているわけです。
だから、

知らず知らずの内に、こんなふうに読んだりしてないですか?

基本は、

の順番で読むのが論理的に一番妥当なのだろうことは、ほぼ決定的ですけれども、

時によっては、

こんなふうに同じ箇所を視線が循環してしまうこともあります。

知らず知らずの内に、このコマわりをされると、視線が歪に動いてしまうんですわね。




横に並ぶコマには、明確な時間の流れ、もしくはそれぞれのコマ間の因果関係が描かれている傾向が強い。

それと比べると、タテヨコが交錯するコマでは、

こんなふうに目が動いてします可能性が高いわけでして、各コマ間の時間順序、因果関係は、弱い。

この場合だと、ピノコはどの段階でブラックジャックの帰宅に気がついたのか?というと、ブラックジャックが車のドアを開けたあとというよりかは、丘の上を登ってくる車を窓から見た時点で気がついた可能性が高い。
縦に並んだ二コマの間に因果関係がないと想定すると、そのような解釈が可能になる。


最近の漫画って視線誘導とか言って、変なコマ割り多いんですが、
基本は、これでしょう。

ラズウェル細木の『酒のほそ道』を読んでいても、一ページに一回は必ず出てくる。



タテヨコの交差したこまわりを使用しないと、ものすごく古風で淡々とした印象を受ける。
機械的に事務的に、物事の経過を報告しているような印象。

漂流教室』72年の作品。
既にこの頃にはタテヨコ交差のコマ割は普通にマンガ買いの主流になっていましたし、楳図かずおもほかのページでは、それを使っているのですが、
この地割れを飛び越える場面では、『のらくろ』のような古色蒼然としたコマ構成。

その淡々とした感じが、生存競争に敗れて死んでいく子供たちに対してビンの中のアリでも観察するような視線を想起させる。




これ白土三平の63年の漫画なんですが、

時系列とか因果関係ではなく、縦方向と横方向の運動線によってコマを使い分けています。

ちなみにこの2年前の『赤目』という作品では、白土三平はタテヨコ交差させるコマ構成を使っていません。

また、手塚治虫で調べてみたんですが、1949年の『メトロポリス』では、タテヨコのコマの交差をほとんど使っていません。
1952年の『鉄腕アトム』では、もうバキバキニコの手法が出てきます。


メトロポリス』より、右側のページは横に読むんですが、左側のページは縦に読むという珍しい構成です。

手塚治虫にとっては、論理展開によってコマがつながっているのではなく、キャラがどう動くかの動線によってコマの継りが決定されていたわけでして、
フキダシを読んでいく漫画ではなく、映画のように見る漫画の確立を目指していたのでしょう。

やっぱ、漫画って読んじゃダメなんですよ。見なきゃダメなんです。漫画のストーリー追っかけるだけで、なんにも見てなくて、そのくせ「自分は速読みだ」とか言ってるようじゃアホなんですね。