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映画術 ポジショニング 『ごちそうさん』から

映画論 2章 映画術

日本の映画、テレビドラマの画面は このように構成されています。

画面の上には物語の進行方向が仕組まれており、その方向の奥には物語のゴールが待っています。

主人公は、物語のゴールを目指して進むのが普通であり、それゆえ、主人公の基本立ち位置は 日本では 画面上向かって右側になります。


しかし、序盤において、主人公がまだ物語の目的を見つけていないときは、そのポジショニングをとれません。

ごちそうさん


洋食屋の実家に生まれ、食べるだけが喜びだったころの主人公。 


実家に下宿する大学生の弁当を作ることで、自分の人生の目的「料理と愛」を 見つける場面。
この時から、杏がご飯を作るときの基本的ポジショニングが 画面向かって右側に確定します。



ごちそうさん』で最も多くの時間が割かれるセット。家の厨房と食堂。

まさに基本配置図通りのポジショニングです。


登場人物のポジショニングに留意してこのドラマを見ていますと、物語が何を描こうとしているのかが容易にわかります。

ごちそうさん』は主人公が、ごちそうを作リ食べさせることで、問題を抱えた人の頑なな内面を開かせ、愛の方向に導く物語と簡約できるのですが、

主人公が、夫の家庭内問題につかれ、うどん屋台に連れて行ってもらう場面。


完全に意気消沈して、「料理と愛」の目的追求ができない状態。
寧ろ、ひとにご馳走を食わせることで癒しと愛を与えるのは夫の役目ですから、
いつもと夫婦のポジショニングが逆になっています。


そして、昆布だしのおいしさに開眼した場面。これで、意地悪な義姉も納得させられるご飯を作ることが出来そうです。

そして、耳を澄ましてみますと、ドラマでのBGMは、このような主人公の方向転換が前のカットとうまくつながるように、そしてより鮮やかに説得力を持たせるために使わるのが基本です。



これは宮崎美子が杏のつくったお菓子に屈服して、愛の方向に導かれた場面。

それまで、宮崎美子の食事のシーンでは、彼女は  向きで、 杏の方向のベクトルと対立構図を成していましたが、
ここでは、向きで方向がそろい、もはや対立は存在しません。
それどころか、最も強く  の方向が示すゴールを向いています。 つまり 愛 のことなのです、が。


どうして映像作品の画面はこのような理屈で構成されねばならないのか?という事ですが、

企画・脚本の段階で 物語には目的、ゴールが設定されており、その実現もしくは挫折の過程が物語の流れであると あらかじめ想定されているからです。
このことを図示しているのが映画・ドラマの画面と言えるわけです。

そして、私たちにとっては、言葉よりも図形の方が分かりやすいようです。だから、資料の類には読者の理解度を向上させるために、チャートやグラフの類が添えられることになっています。

(ただ、一見するとわかりやすくなったように感じるだけで、実は全然理解を助けない図やチャートもたくさんあります、困ったことですが)

人間の歴史を考えると文字よりも絵画の方が古い事実も、図形的なものが人間の理解に適している根拠の一つでしょうか。


さらには


、ある種の巨大建築物も、権力を図やチャートで表現したものと言えるかもしれません。


そして、映像が図形的メッセージを放出し、見ている側はそれを無意識に受け止めていることを了承しておくと、
どうして、私たちは、この宮崎美子の演技で泣けるのかがもっと分かるようになります。

決して、図形的なメッセージだけで私たちは感動している訳ではありません。

ごちそうさん』59話

私たちは、映画なりドラマなりを見て登場人物に共感し、涙を流したりします。
そして、その理由を役者の名演のおかげ、脚本の力のおかげ、監督の演出のおかげとして片付けようとしますが、

個別に具体的に、何がすごいのか?どこがその他と違うのかという事はよく分からないままです。

まず、画面の構成的には、このようなカラクリが仕組まれています。
そして、このシーンの感動の何%が画面の構成力によるものかが分かると、役者の仕事の領分がよりはっきりしてきます。
役者が何をやっているか、何をしていないのかの境目がよりはっきりしてきます。

自分を捨てていった夫を、根性の曲がったで戻り娘と喧嘩しながらじっと待ち続けた女が、
夫の優しさの思いでそのものである ハモニカというゼラチン菓子を食べて泣く場面ですが、

顔をゆがませること、声を震わせること、呼吸のリズムが乱れること、いろいろ演技は行われています。

しかし、このシーンの一連の演技の流れのクライマックスは、
大切な思い出の依代である「ハモニカ」をつかむアンバランスな握力、
力一杯握りしめて自分のものにしたいと思いつつ、容易く壊れてしまうものだからあまり力を入れてはいけないという、相反する思いの表現にあるらしいことが分かります。


そして、掌に込められた力具合というものも、涙や言葉と比べると、観客には無意識的にしか受け止めることのできないものであり、

人を感動させるには、無意識的部分を攻略することが重要らしい、という事を私は思わずにはいられないところです。



無意識についてですが、
私たちは、現在において、性欲について拘泥しすぎたフロイトの心理学を顧みることはあまりありません。
しかし、
人間の心の仕組みとして、
無意識の方が意識よりも割合が多いという説は、おそらく妥当なものでしょう。


では、ちょっと簡単な実験をしてみましょうか。
下の写真を三秒見てください。
別に記憶力のテストでないから、リラックスしてください。












どうでした?
どんな部屋でした?
和室ですか洋室ですか?
電気掃除機見えました?
机の下にごみ箱有るの見えました?
壁掛けの時計どんなだったか覚えてます?
ノートPCの画面に何映っていましたか?


3秒だと、こういう細かい点は、思い出せないでしょう。

もしくは、三秒間見て、その直後に思い出せないというのは、見た内に入るのでしょうか?
ちゃんと3秒間写真を見たはずなのに、その多くを見ているとは言えない、
これが人間の視覚の在り方でして、
人間の目は焦点を合わせて、注意関心のあるものをじっくり見てしまう特性があります。

だから、この部屋の写真で言いますと、一番大きいモニターに映っている女の子の紙が長くて黒い、
それくらいしか、私たちは見ていないんですね。

そして、この見ている割合と、見ていない割合は、
フロイトが考えた 意識と無意識の割合 にほぼ相当するようです。

本当は見たはずなのに、見なかったことにしてしまっている部分、
これが私たちの無意識の正体らしく、それらが積もり積もって、漠然とした印象や感情を形成しているらしいのですね。

『印象・夜明け』

有名な印象派絵画ですが、
人間がどう物を見ているかについて、教えてくれる点の多い絵画です。


この絵、人間の目の焦点から外れる部分をほとんど真面目に描いていません。
もし、この光景を三秒間じかに目にしたとしたら、おそらく、この絵画のまじめに描かれている部分しか注意が行かないでしょうし、モネはそういう人間の意識の在り方を絵画にしたわけです。


「『印象・夜明け』を見てどう感じましたか?」
もし中学校二年生の美術の時間でこんな質問を受けたとしましょう。

「朝日の上る河の光景で、ボートをこぐ人たちがいて、きれいだった」
こう答えた瞬間に、頭の悪い美術の教師は、あなたに美術の才能がないと決めつけるでしょう、おそらく。

この答えは、絵画の焦点の合っている部分だけを叙述したものであり、
映画で言うところの粗筋を語ったのと同じなのです。


「『印象・夜明け』を見てどう感じましたか?」
「遠くの空のオレンジの光が船のマストの影を靄のように揺らしている。それを見ている僕の心には波と光の煉瓦が積み上げられていくようだ」

こう答えると、頭の悪い美術の教師は無茶苦茶喜ぶでしょう。

何のことはない、モネがちゃんと描かなかった部分を主観的な言い方で描写しているだけです。


そして、現代の美術は、モネがちゃんと描いた部分ではなく、まじめに描かなかった部分をもって美術の主流と見成しました。




このようなことを了解してテレビを見ると、いろいろ興味深いことが分かります。

NHKの朝ドラに限らず、日本のテレビドラマはこの手法で画面が構成されていますし、時にはニュース番組もこの手法をとっています。

だから、
画面上  向きの人物が主役であり、善玉である確率がものすごく多い。
そうなると、たった15秒間のCMでさえ、この画面構成の影響を受けることになります。

ドラマの中の画面の流れに沿った形でテレビCMを作っている訳です。



鮨をご馳走と考える主婦が、ラーメン食いたい息子に押し切られる内容。


これを見ていますと、ガッキーの向いている方向は『ごちそうさん』で杏が昆布だしに開眼する時のカットのつなぎ方とほとんど同じです。


一方、そのような発想でCMが作られていなかった牧歌的な時代。

これを見るとわかりますが、画面の左右の進行方向を意識すると15秒間でもドラマが作れるらしいんですね。
そうしないと、このような商品紹介で 15秒間が終わってしまいます。