私が、このブログで語っている映画の見方なのですが、
なんで映画は、いちいち画面を切り貼りしてみせるのか、
それによって観客は何を感じさせられている可能性があるかについて
延々と語って見せたものなのですが、
画面で登場人物が右の方向に走っているか左の方向に走っているかというのは、
みている観客のほとんどにとっては、とりあえずどうでもいいことのようです。
そして、そのようなどうでもいいことが積み重なると、観客の心には一定の印象が刷り込まれます。
そしてその印象は、一見どうでもいいことによってもたらされる故に、ほとんどの観客は、
自分が映画に対して感じえたものが、制作サイドに仕組まれたものであるとなかなか認めることができない。
つまり、
もしその観客の語る感想というものが、他人にとって意味がある、それなりに妥当性のあるものであるならば、
その感想とは、まんまと刷り込まれたものであり、
逆に
制作サイドの仕掛けから自由にイマジネーションがはばたいた上での感想であるならば、それは独走性の高すぎるものであり、他人にとっては何ら意味をなさない可能性がある、
ということだと私には思われます。
しかし、ですね、
ここで、話を映画から小説に移してみますと、
わたしたちは、小説の一字一句をすべて読んでいるでしょうか?
普通、私たちは、小説を読んだ、ということは、
その小説のあらすじを語れること、そしてその小説から感じた何かを語れることだと信じていませんですか?
まあ、これ、義務教育の作文の授業に責任があるんだとは思いますけど、
紙面の大量の文字や記号をことごとく忘却し、
自己裁量でいびつに歪んだストーリーの解釈と、そのようなある意味での二次創作物に対しての感想だけを記憶にとどめ置いている訳でして、
もしかしてひょっとすると
本を読んだということは、
紙面の文字と記号を頭に叩き込むことなのかもしれない…、そんなことを一瞬でも考えてしまったとき、
小説を読むとはなんとだるいことなのだろう?小説とはなんと厄介で中途半端なコミュニケーション手段なのだろう、と思わずにはいられないところです。
小説を読むとはどういうことなのだろう?小説を理解するとはどういうことなのだろう?
そんなことを考えていると、非常に厄介なことばかりですが、
とりあえず、この点から考えてみたいのですが、
「小説のすべての文章を、頭の中で映像化してみないといけないのか?」
ということです。
巷には、小説一ページを絵画を理解するように、あたまにインプットする速読法というのがありまして、
それを利用すると、文庫本一冊一分程度で読めるようになるとのことですが、
そのような速読の小説の読み方に、
小説の脳内完全映像化というのは、はたしてあるのでしょうか?
絶対ないだろうな、と思います。
小説読んで、頭の中で絵コンテ伐ってゆくような読み方ってふつうしませんでしょ。
ちなみに、私、昨日、そのような読み方で一冊本を読んでみたのですが、
- 作者: フィリパ・ピアス,スーザン・アインツィヒ,Philippa Pearce,高杉一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/06/16
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普通に読む場合の四倍くらい時間かかりまして、疲れました。
これ、小説のレベルが高いから、四倍の読書時間がわりにあったのですが、
ダメなレベルの小説だと、途中で絶対放り投げているだろうと思います。
で、通常の四倍の時間をかけて読んだ結果、何か面白いことがひらめいたのかと申しますと、
おそらく、
小説という表現形態は映画ができるのを待っていた、
そんな風に思われました。
このテーマ続く。