透明人間はフリチンで

透明人間

透明人間

もしこの文章を読まれた方で、『透明人間』を読まれたことがないのでしたら、ぜひ読んでみてください。

青空文庫にあげられている『透明人間』は、子供向け出版社ポプラ社のものでして、
少々子供向けにアレンジされてはおりますが、大体は原作に忠実です。


わたし的にこの小説を段落わけすると、

①透明人間の正体が知れるまで
②透明人間が助手を伴って主体的に行動する
③透明人間がなんでこんな状況に至ったかの回想
④透明人間と善玉の決闘

となります。

わたしがこのブログで延々語ってきた映画の脚本の理論の観点から見るなら、

①部の透明人間の正体が知れるまでのプロセスでは、徹底的に周囲の人たちの怪訝で好奇心に満ちた目線で語られます。


映画の画面を構成するならば、

こんな感じでしょうか。

小説では、完全に村人たちの目撃談によって①部はかたられます。

この辺りは映画『インビジブル』とは大きく違うところです。
映画では、主人公はイケメン科学者で、仲間の研究チームがいて、
彼の正体について詮索するものの視点に立って物語を進めるというわけではありませんから。


小説は②部になると、ようやく、透明人間が主役的に動き始めます。
もう、村人の視点を通して描かれるだけでなく、自己目的に従って行動しますので、ハリウッドの脚本術的には、この段階でやっと正しい主役の地位につけたということなのでしょう。

映画の場合は、相当に早くから自己意志によってケビンベーコンは行動しておりまして、
映画の場合は、時間が限られていることもあり、主人公がとるべき行動を早期に示して見せなければ話がぼやけてしまう、のでしょう。


小説ではこうやって、透明人間がどんな存在か、どんな属性を持っているか、を描き切ってから、やっと③部で、透明人間の過去のいきさつが語られます。


時系列を編集で組み替えることにより、読者の注意をうまくひきつけたまま物語を語るテクニックで、
これは映画で言うと、『市民ケーン』と大体同じやり方でしょうか。

まあ、それはいいとして、

読者は②部が終わるころまでには、勝手にいろいろなことを考えてしまうものです。

もし自分が透明人間だとしたら、どうしよう?とか
または、
透明人間に翻弄される村人の立場からすると、透明人間と戦うにはこうすればよいのではないだろうか?
とか。

そういう妄想をめいいっぱい刺激されたうえで③部の
透明人間がどういう経路でこの場にたどり着いたかの語りになります。

なんで透明人間になったのか?
透明人間になってどうやって生きてきたのか?
透明人間にはどういう利点があるのか、どういう欠点があるのかを延々と語られます。

この小説の素晴らしい点というのは、
小説が、透明人間の利点と欠点を語る前に、具体的な状況を提示して見せることで、
まず読者の妄想力をとことんつついて見せることです。

もし、この小説が時系列的に語られ、読者の妄想スイッチを押す前に、小説みずから透明人間の利点と欠点を語ってしまったとしたら、

ここまで、いろいろな人に亜流作品を作らせることができてきたでしょうか?


俺ならこうする、と読者に妄想させてから、
作者は、独自の見解をいくつか③部で述べて見せます。

「透明人間になったら、デパートに忍び込むことができるよ。高級寝具もれ玩具もレストランも夜のうちならなんだって思いのままさ」

これなんか、まさに私の子供のころの夢そのものです。

「透明人間は、服を着たらもう透明じゃいられないから、雪が降っても雨が降っても全裸だよ。これは辛い。それに靴履くことだって無理なんだから」

なるほど〜としみじみ感じいります。
ただ、全裸のつらさは描かれはしても、フリチンについて言及されることはありません。
はばかりの多い時代だったのでしょう、きっと。


映画ではケビンベーコンは透明人間になった後も、変装して車でドライブに出かけますが、
小説が発表された90年前は、交通手段というと、汽車、馬車、自転車、徒歩、それくらいでしょうか。

今の車社会でしたら相当にあやふやな格好をしていても移動は何とでもなりましょうが、
昔ですと、人前に出ない限り交通機関を利用することは出来ませんでした。自転車に乗るとしても、自転車が透明でないなら、無人で動く自転車が目立って仕方ないですし、結局歩くしかなくなる訳で、しかも雨の日にはあるけないし、寒いも全裸での移動は苦しい、しかも靴さえ履けない。



科学の粋を集めた発見の利用方法が、原始時代の人間の在り方に先祖返りというアイロニー


では、車に乗る以外に『インビジブル』ケビンベーコンにはどんな100年分の利点の上乗せがあったのか?というと、
別に何もなさそうです。

むしろ、透明人間を刈る立場のテクノロジーが進歩して、赤外線スコープを使えば、透明人間は丸見えという時代です。

そうなってしまうと、透明人間になる利点というのも、覗きとか痴漢とか強姦くらいしか本当のところはないのかもしれません。



まあ、しかし、この小説、人の妄想を刺激する点では異常な力を持っているように思われます。


もし、透明人間がフリチンのまま満員の山手線に乗ったとしましょう。
牛ぎゅうづめにおしこまれて、にも拘らず、透明ですから、
そこに空きがあると思われてさらに押し込まれる。
あわや窒息死か?と思った矢先、目の前の中年女から「ギャー」という叫び声、彼女のユビサキが透明人間のフリチンに触れてしまい、
露出狂に出くわしたと思うた中年女の絶叫…



小説④部では、透明人間狩りが、作者の道具立てで実行に移されます。

しかし、読者は②部と③部からさんざんと、『どうすれば透明人間の利点を消すことができるかを妄想しておりますので、

もっとやれ、もっとやれ、お前は甘っちょろい、みたいに思ったりするものです。

わたくし的には、
「透明人間がはだしで歩いているんだったら、マキビシだろ」と思います。
また、
「コンビニやスキ家に常備されているカラーボールの出番だろ」と思います。
そして、
「もっと犬を使えよ」と思いますし、

「モップに塗料をつけて、いたるところチェックしろ、それもローマ帝国軍の槍部隊みたいなやりかたで」
とか思います。

わたしでも思いつくそういうもろもろの創意工夫が、ほとんどそのまんま映画の中にも出てきます。


血液を床にばらまけば、足跡から透明人間の居所が分かるはず。
でもわかったところで、怪力の男にこの女の人勝てるわけありませんし。



消火器をあてることで、相手の居場所を探知できる。
これが、色落ちしない液体の噴射であればなおよかったはず。

ケビンベーコンが悪さし始めた時点で、DIYショップでペイントスプレー買っておくべきだった。


火炎放射器
マジ殺す気。
ていうかね、透明人間はエイリアンじゃないっつうのよ。