映画の法則④  文法


日本語の文法はSOVです。それに対して中国語はSVO。どちらか一方が不合理で、どちらかだけが合理ということはないでしょう。二通りの文法があるということは、恐らくそれぞれに言い分があるのだと思います。

「私はリンゴを食べる」という文について考えてみると、単語は三つ。
私 リンゴ 食べる

そこで考えてみたのですが、「私はりんごを食べる」の文は一つですが、意味の可能性としては二通りあるのではないか?

私は リンゴを見て食欲を誘発された それゆえリンゴを食べる
私は お腹が減っていて何か食べたかった リンゴがあったので食べる

つまり、「私はりんごを食べる」の状況の原因が、リンゴであるのか、食べたいという欲求であるのかの両方が考えられるのですが、

これを映像化してみると
食欲が先んずる場合は、



となるでしょうし、

リンゴが食欲を誘発した場合は、



となるでしょう。

このように考えると、なるほど、言語にはSOVとSVOの両方の文法があるのはむべなるかなと思わされます。
よくエセインテリが日本語は不確かな言語だからまともに物を表せない、とか言いますけども、
上の図を考えてみるとSOVの文章の方が、妥当である確率が高いのではないかと思ってしまうところです。


たいていの物事は同時多発的に起こるものではなく、何かが先んじ、その先行した要素が後続の要素に何がしかの影響を与えるものです。

「私はりんごを食べる」の文にしても、リンゴと食べるの二つの単語の間で、本来、先と後があるはずなのですが、単なる情景の描写としてこの文を捉えた場合は、そういうことが注目されることはまずありません。

大概、私たちはそのようなことを無視して会話しているのですけれども、よくよく考えてみれば、時系列的に先んずることを先に話すのが、人間にとって自然な文法なのではないでしょうか?

なんでこんなことを私が考えるようになったのかというと、映画の画面を左右の方向に気を付けてみるようになったからです。

これは私が映画を見るたびに注意している「北枕」の技法ですが、

「北枕」でOFF状態の女の子


イケメン出現


「北枕」解除されて「蘇生」した女の子

カットの積み重ねが、状況 原因 結果を示しています。


非常に原始的な言語のようでもあり、『ガリバー旅行記』に出てくる変な学者の島で「常に現物を持ち出してくれば、言語に単語なんかいらない」という説に似通っています。
馬という単語は、馬という現物を持ってくれば必要ないという説は、現物ではなく、写真を使えば実はかなり現実的な話であり、
調教するとか鞭打つとかの動詞も、動画で示すことができれば、なくてもなんとかなるかもしれません。

事実、媒介言語を使わずに、学習対象言語を直接学習者に教え込む場合には、そのような教材が使用されています。

また、映像で用いられる文法のようなものは、非常に、原始的で人間の脳裏に自然な文法であるように感じられるのですが、どうでしょうか?

何か食いつきの悪い、意味不明で、気取り屋で自分の知性を示そうといっしょうけんめいな文章とかじゃなくて、
手で触れた時のようにしっかりとした実体のある言語
映画の気持ちよさというのは、そういうところにあるのかもしれないと私は考えてみました。

ところで、
上で取り上げた『檸檬のころ』の三つのカットですが、日本語という言語に翻訳すると、
「北枕」でOFF状態の女の子は、イケメン出現したので、「北枕」解除されて「蘇生」した、となるわけです。

ここで私が気になるのは、理由原因を示す二番目のカットの順番を入れ替えることは、可能であろうか、ということですが、
これは言語の場合、よくある言い方です。

イケメンが出現したから、OFF状態の女の子が「北枕」を解除されて「蘇生」した。
または、
OFF状態の女の子が「北枕」を解除されて「蘇生」したのは、イケメンが出現したからです。

それでは、


とか



のカットの並びはやっていいもんなんでしょうか?ということですが、

あんまり宜しくないような気がします。
やってもいいのかもしれませんが、そのシーン、浮いてしまわないですか?
カットを切る行為には、何かを切り替えるということ以上に、時間の流れを切っているように思われてなりません。
事実映画は、カットで刻まれた隙間に省略された時間があるはずのものでして、
カットの狭間の時間の存在によって、たかだか一時間45分の映画で数日間場合によっては数年間の物語を語ってしまうものです。
だから、本来、時間の継続性が必要な場面で不用意に左右の切り返しをやってしまうと、露骨に目立つのですよね。
それはサブリミナル的な心情表現というよりかは、ぎこちない時間の空白のように感じられてしまいます。
それゆえ、方向を切り替えるには、鏡とか階段の踊り場とかを使って時間の継続性を保持するような表現が昔から行われてきております。

そのような理由から、もし女の子の向きを入れ替えるには、別々のカットでつながずにカメラを動かしながら長めのカットで一息にやってしまうのが似つかわしく思われます。

ただ、長めのカットで、カメラが動くと、そのカメラ視点は誰かの視点であり何がしかの意味を持っているようにおもわれてしまうのですね、私には。
カメラが動くこと、それも人間の動きを露骨に反映したように動くことは、カメラを持っている人の存在を感じさせるものです。
映画を見ている場合、カメラマンのことを考えるというよりかは、誰かの視線を模しているのだろうと感ずるものですが、

例えば、

シャワールームに女の人が入っていって

血まみれになって出てきた。
ここまでを長回しでワンカット。


シャワールームの内部のカットで、血まみれのナイフが落ちていた。

このように構成すると、状況 結果 原因 の順で表現することができるのでしょうが、こうすると、誰か現場に居合わせた登場人物の主観カットのように見えるのですね。

このように画面を構成することには、なにか特別な理由づけが必要であり、どこか不自然さがあるということは、
人間の言語でも、本来、物事は時系列に沿って並べるのが正しいということなのでしょう。
三つか四つの単語で成り立つ短文を、時系列に沿って並べていたのが、人間の原始的な言語の始まりではないのか、
いや、文というよりも単語レベルで時系列に沿って並べていたのではないかと、映画を見ることにより私は思うようになりました。

そういえば、原因理由を示す「から」とか「ので」も、本来は順序を表す語に過ぎないのですし。


2013年10月9日
頭の中で煮詰まってないことネットにさらすな、という気がしますが、まあ、いいではないですか、どうせ読むのタダなんだし。