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『天空の城ラピュタ』 宮崎駿と「北枕」

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。






天空の城ラピュタ』、宮崎駿作品の中ではこなれた内容で人気も高いのですが、
私から見ると、物語、作画、どちらもヌルい作品です。


どうしてこうなったのかというと、劇場作品オリジナルの『風の谷のナウシカ』が予想を下回る客入りだったために、制作費が落ちたことと周囲が宮崎駿にてだれな企画でお茶を濁すように薦めたのでしょう。

風の谷のナウシカ』が勝負作の臭いがぷんぷんするのに対し、この『天空の城ラピュタ』は、『未来少年コナン』のダイジェスト版以上の内容には見えません。
ヒロインの顔も全く同じですし。いやむしろ『未来少年コナン』のラナのほうが力が入っているように見えます。

今となって信じる事の出来ないのは、宮崎駿作品が公開されるたびに国民的大騒ぎであると言うのは『もののけ姫』以来と比較的最近のことに過ぎないのですが、
それなら以前の作品は時代の先を行き過ぎていたから注目度が低かったのかというと、逆に時代遅れと思われていたのです。

流行のアニメはSFがちがちの世界観を構築し、まともな大人が入り込めないようなオタクのヴァーチャル楽園になっていた時に、宮崎駿作品は非オタクでも入っていける、家族連れが楽しむことが出来るヌルい作品つまり時代遅れの作品と思われていました。


天才宮崎駿が『風の谷のナウシカ』で思うほどの評価をえられず、てだれの企画でお茶を濁したり『トトロ』でキャラクターグッズ戦略に活路を見出そうとしたりしながらも、夏休み春休みごとのテレビ放送でジブリ作品は着実に人気を不動のものにして『もののけ姫』で日本映画興行記録の更新しますが、それまでに10年以上も費やしました。

宮崎駿は偉そうな発言の多い人物ですが、実際偉いですし、それにこれだけ世の中が正しく彼のことを評価するまでに時間がかかっているのですから、彼の口から世の中の人にとって耳の痛い内容がいくらでも出てくる事に何の不思議もないでしょう。


天空の城ラピュタ』は、『未来少年コナン』の焼き直しに過ぎないと言えるかもしれませんが、逆に言えば宮崎駿のエッセンスが煮詰められていると言えない事もないです。

私が宮崎作品に於ける一つの特徴、「北枕」の扱いですが、
画面の進行方向に逆行して起床するのは、見る側にはスームーズなものに見えない、そして起き上がった人の行動原理が物語の目的と矛盾したものになるということから、
画面むかって左側に頭をおいて寝ていることを私的造語で「北枕」と言うのですが、宮崎作品では、この「北枕」をどう物語の展開の中で位置づけていくかが丁寧に扱われています。
当然、この作品でも、いかにもな扱いがされています。



冒頭のシータの軟禁されている様子。飛行船ゴリアテの進行方向は <−であるのに対し、シータは−>の方向を向いている。
いわば、運命がヒロインを彼女の意志と関係のないところに連れて行く事を示しています。

人物が進行方向と逆の方向を向くことが出来る交通機関は、このような状況を表現する事が可能ですが、電車、汽車と同じ使い方が出来るようです。



海賊にゴリアテが襲われ、シータが空から落ちてくる。
頭が向かって左側を向いている「北枕」。シータが気を失っていることを示すと同時に、映画文法的には彼女は死人と同じ事を示唆している。
彼女には頼るべき人が誰もいませんし、信じてくれる人も誰もいないでしょう。社会的には死人と同じと言えるかもしれません。


バズーがシータを受け止めるカットで彼女が「北枕」から解除されます。
バズーと一緒になることで彼女がよみがえるということなのでしょう。もしくはこのままより深く死の世界に落ちていくことから、とりあえず救済されたことを示しているのでしょうか?

また、男の子と女の子が出てくる物語では、男の子と女の子が出会ったときに、物語は三分の一終了しています。
男の子と女の子がどんな必然で、もしくはどんな偶然で出会う事が出来るのか。運命とはそういうことなのですが、
ボーイミーツガールの物語の残りの三分の二は、二人の行動目的がすりあわされていくことであり、そして最後に二人が共に幸せになるもしくは共に不幸になる事です。


ただ彼女はまだ気を失ったままで起き上がることが出来ません。それにシータはその飛行石および彼女の来歴もすべて謎ですから、−>向きにいるのが当然のキャラクターなのでしょう。



物語の比ゆ的に彼女が死人なだけで、生物学的には彼女は生きていますから、目覚めるまでの間ちゃんと息をしているのを表すかのように、微妙な角度に頭が動いている。


朝にバズーが目覚める。無論「北枕」からの起床ではない。


シータの体調がよくなっていることを示すように、彼女の頭の角度が中央よりに動いている。


ここからが、ある意味では、少女をよみがえらせるための儀式と言えるわけです。
屋根の上にバズーが上ると、煙が<−ポジティブ方向に流れます。


更に駄目押しで、白い鳩が<−方向へ飛ぶ。
非常に大袈裟な「儀式」かもしれませんが、本来「北枕」は死人にこそふさわしいものですから、死人をよみがえらせることはこのくらいの手続きが必要ということです。


ラッパを吹くバズー。無論<−方向に向けてです。
いわば、これが「死者をよみがえらせる」為の儀式の主内容です。


ラッパを吹く方向が逆になります。
移動のシーンの最後に逆方向のベクトルの楔を打ち込んで、移動が終了した事を示す手法と同じ理屈であり、この儀式が功を奏したをことを示しています。


それゆえ、シータが起き上がります。起き上がる為には、<−方向を向いていなくてはいけません。彼女の目覚めが<−であれば、彼女の向かう先には物語の目的が待っていると示す事に画面的説得力が伴います。
もし、−>の方向に目覚めていたとするならば、彼女はやることなすこと物語の目的の実現の障害になるように思われるでしょう。

訳の分からない女の子が空から少年の日常生活に半死の状態で飛び込んできた。
そのような絵に描いたような分りやすい導入部から、ちゃんと後の物語につなげていく為に、『天空の城ラピュタ』はこのような煩わしい手間を取っているのが分ります。



目覚めのシーンは窓から見た姿つまり男の子よりも目線だったのですが、このシーンでは部屋の内部の目線、女の子よりも目線です。
彼女はこの部屋のお客さんなので、アウェーの立場にありますし、
一旦<−方向に目覚めたのですから、気兼ねなく−>方向に体を起こしています。


そうして、やっと物語の目指す方向<−に進みだします。それを後押しするようにヤカンの煙が<−に流れます。
宮崎作品では煙もよく使われます。


同じ方向を向いている人物、同じ方向へ進んでいる人物というのは、同じ考え同じ価値観同じ目標を持っているといえるでしょうし、
これは二次元映像の世界だけでなく、
日常世界の比喩表現として、「彼とは同じ方向性を持っている」とか「彼とは同じ道を進んでいる」という言い方がされても全くおかしくはありません。
人間は、その感覚器官の80%を視覚に頼る生き物であり、物事を視覚的にイメージするとものすごく頭の中の整理がつく生き物であります。
映画を見るというのは時代の流れの中で生まれた特別な娯楽形式というものではなくて、人間のイメージ形態に相当忠実なものであると私には思われます。

そしてそれゆえに、映画の二人の登場人物を同じ方向向かせたり同じ方向に進ませたりすると、二人の内面的部分まで共通性を見る側は感じざるを得ないわけです。


更に言えば、二人の移動曲線が曲折し交差しやがて同一方向を目指すと言う風に描写すれば、煩わしい心理描写をほとんどはしょったところで、二人の心理的な融解が納得できる形で示されてしまうのですね。

どうしてアニメーションのキャラクターは独特な動きをするのか?ディズニー作品や宮崎作品の登場人物は現実の人間と比べて過剰な動きをするのかというと、

アニメーションでどうしても実写の人間の演技に適わないものは、演技の点です。それも顔面演技に関しては、どうしたところで実写には適いません。
例えば谷村美月がよくやるような5秒間で眼球を左右に二往復半動かすような事をアニメーションでやると、たぶんとてつもなくくどいと思われます。
現実の人間はほっといてもそれなりに眼球が動くものですから、相当過度に動かしてもあんまり気にならない、もしくはその眼球の動きが目立たないゆえにサブリミナル的に観客心理に影響するだけですが、
アニメのキャラクターは基本的に動かないものですから、その基本に於いて5秒間に眼球を左右に二往復半も動かしたりしたら、そのシーンはやたらと目立ってしまうことに成ります。
また、そういう演技を絵で表現しようとするのはきわめて難しいだろうし、また難しさの割に合うようなものでもないと私は思うのですね。

つまり、そういうレベルでの顔面の演技が限られてしまうのですから、画面上のベクトル発生が限られてしまい、物語を語る映像説得力が限定されてしまう事になります。
だからそれを補う為に、キャラクターに過剰な動き、大抵は可愛らしいといってすごされるような過剰な動きですが、それをやらせることで顔面演技の代用にしているのでしょう。
そして彼らのアクションの動線というものは彼らの心の動きと対応していると考えられます。


−>の方向に跳ぶと普通は死んでしまう。尤も死にはしないですけれど、飛行石の力は発現せずバズーはレンガの屋根を突き破って階下の部屋に落っこちる。

こまめな動きを絡めて、二人の間の心の交流を表現する。右と左のポジショニングを入れ替えていくことで、二人は同じ考え同じ目的のパートナーに育って行っていると見ている側は説得されている。



ほとんどの宮崎作品に、これに類するシーンが出てくる。男の子が女の子を抱えてくるくる回る。

自分は自分で相手は他者という図式を一気に粉砕して、二人は同じ方向性を持ち同じ目的を持つパートナーであるというイメージを画面の中で作り出しているわけである。
男の子と女の子の関係としては、強引な進展のやり方かもしれない。そしてその代わり、男の子と女の子の恋愛の駆け引きみたいなものは彼の作品には全く登場しない。
最初に顔を見た時点で、誰と誰が恋仲になるのかは宮崎駿作品では決まっていると言ってよい。

風の谷のナウシカ』より

こちらは、よりありきたりな「北枕」の解除例。中盤で偵察艇の当番の為に夜中に起こされるバズー。

死んでいるわけではないのでしょうけれども、疲れて「死んだように」熟睡していると言う程度の意味の「北枕」
所詮画面は左右の二方向しかないので、この程度の意味でも「北枕」は使用される。


無論ゾンビ方向の−>起床はやってはいけないので、目覚めには、頭の向きが逆になるカットが挟まれる。


起きた後も、ねむくてねむくて仕方がないというバズーの心を表すようにアウェイのポジションに切り替わる。

夜中に起こされるシーンだけでも、カットはこのように切り替えられる。


続くシーンでのシータの起床。こちらはもっと複雑な意味が含まれる。


シータが目覚めるのは「北枕」


ただし、起き上がって部屋を出て行くときには、逆向きに変っている。そして変りにママが「北枕」ポジションに入り、彼女はぐっすりと眠っていてシータが部屋を出て行くのに気がつかない事の表現になっている。


ただし、シータが部屋を出て、部屋の外からの視点のカットに変ると、ママはポジティブ方向に転換しており、案の定目覚めてシータの行動をフォローする。

千と千尋の物語』の中で使われたテクニックであるが、自分の「北枕」を解除する為に他の人に「北枕」を代わって貰うという手法は、ここでも使われており、「北枕」解除の理に適ったやり方として宮崎作品では多用されているように思われる。


そして、これも宮崎作品にほぼ共通して見られる「北枕」の扱いであるが、

ラピュタに到着した二人が、気を取り戻して目覚める場面。「北枕」


起き上がる場面では、カットは遠景の引きのものに繋がれるが、それでもポジティブ方向<−への転換が行われていない。
つまり、ゾンビの起床パターンと同じ事がここではなされている。
そして宮崎作品で、ゾンビの起床がなされるのは、主人公が異界に入り込む時、もしくは入り込んでしまった時であり、その異界は基本的に死の世界であり、現世の法則はことごとく通用しないさかしまの世界である。
つまり「死の世界」なのだから、登場人物たちも死人のように起き上がらなくてはいけないと言う事である。
ナウシカ腐海しかり千と千尋のテーマパークしかり。


ほとんど、ナウシカ腐海の底の再生の森と同じ扱いのラピュタの森のシーンだが、

宮崎作品では、主人公が異界に取り込まれ、そこでの体験は現実世界のものとは直接繋がってはいないけれども、異界の中で死んで生まれると言う体験、つまりそれまでの自我を壊し新しい自我を手に入れる体験をして、元の世界に戻ってくる、そして異界での体験の上に今後の未来を接木していく構造を持っている。

そして、この接木構造は、子供に語る物語が基本的にすべて持っているもの、つまりファンタジーの基本構造といえるのではないか?

子供たちはファンタジーに触れることを単なる暇つぶしと捉えるには人生経験が少なすぎる。多かれ少なかれファンタジーはどっぷりと子供たちの心に根を下ろすのだから、大人たちもファンタジーを語ることを単なる商売としてやってはいけないようなきがする。


千と千尋は、出るべくして出てきた宮崎作品という気がするし、この異界体験が個人的な体験として限定されていると言う点では、ナウシカの世界を救うという壮大なビジョンと比べるとなんとも小さな世界観ではある。
ただしかし、ナウシカと比べると、千と千尋の観客動員数は30倍くらいに増えているので、仮に個人的な体験としても「国民的体験」ということが出来るかもしれない。


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