『あまちゃん』 ユイちゃんが東京に行けなかったのは自業自得  

わたしは、公立中学二年生30人学級の上位7人くらいが分かるような文章を書くことをモットーとしているのですが、




こういう場合

( 事件の前 ) → ( 事件の後 )

( ABC )  →   ( ZYX )

( ADE )  →   ( ZWV )

( AFG )  →   ( ZUT )


AがZの原因である、そう結論付けていいのではないでしょうか?

これは科学的思考の第一歩です。


ドラマのセットは、

このドールハウスのように壁の一面が作られておらず、その開放面から照明を当てたりカメラを設置したりしているように思いがちですけれど、

あまちゃん』の場合は、360度どこから撮影してもいいように作られているようです。

にもかかわらず、春子さんの実家のセットでは

春とアキが寝室として使っている階段後ろの部屋にカメラを置いて、囲炉裏の部屋を映すカットはほとんどありません。

まったくないと言い切りたいところなんですが、探すと、いくつかあるのですね。


七話 井上剛監督

春子さんが家出した直接のきっかけ。
市長その他が、彼女の意志に反して海女として地元にとどまるように懇願した。それに対し夏ばっぱも流されるように同意する。

その話を隣室で娘に話す春子さん。隣室の夏ばっぱは狸寝入り。


じつは、囲炉裏の向こうにも部屋があって、朱塗りの板戸の向こうには板張りの床の部屋があるのが分かります。

第65話 吉田照幸監督

海女ソニックの後、母親からびんたされるアキ。自宅に戻ってからも折檻される。


春子の理不尽な言いぐさから激しい言い争いになり、母親のことを馬鹿と言い返して家を飛び出すアキ。
囲炉裏と板張りの部屋の区切りの朱塗りの板戸を背にしている。

この珍しい方向からのカットに対応するかのように、能年玲奈は天野アキの顔ではなく素でヴァラエティー番組に出ているときと同じ能面美人顔。
いつもとは別の一面を見せています。


階段の後ろの春アキの寝室から囲炉裏の部屋の方向を映すカットはほとんどないのですが

ほとんどない極めて珍しいカットと同時に展開される物語は、
親子の葛藤であり、
さらに言うと、子供が思うほど親は強くない、という内容です。



第72話  井上剛監督

足立家の居間のセット。
常に食卓からストーブの方をカメラが映していますが、

ユイが東京に出ていくはずの前日の晩餐では、一回だけ逆側からのカットが入ります。


ストーブ側から食卓側を見るとカーテンで窓がふさがれているのが分かります。


この後、父親は涙洟をすすりながら頭が痛いと言って先に寝室に向かったように見えますが、

じつのところ、この後、暗い部屋で深酒をして、それが直接のきっかけで倒れます。



日頃みせない 部屋の壁を見せること。  それは日頃みせることのない心の一面を見せることと対応しているようであり、
この対応は、視聴者には無意識的に察知される表現のようです。

そして、こうやって登場人物の心を表現している、もしくは表現しているとみるものが感じてしまうのが 映像作品であり、
あまちゃん』全体の時間を考えると、この日頃みせない部屋の壁を見せるカットは ささやかすぎるのですが、
井上剛監督の回を子細に見ていると、まるで映画の画面的伏線のように浮かび上がってきます。


ユイの父親が倒れたのは、持病が理由ですが、直接の原因はまだ高校も卒業していない娘が自分のもとを離れていく寂寞感であり、それに耐えきれなかったゆえの深酒であった、そう結論付けることができるのですから、


ユイが、あのトンネルの向こうに行けなかったのは、彼女のカルマみたいなものです。
そして、このシーンの橋本愛の悲鳴の説得力は、この演出の流れからきているのかもしれません。


演劇は元々が神への奉納物として始まったのですから、ドラマの中の論理が宗教の論理と似通っているというのは何の不思議もございません。

因果応報、私たちの文化圏のドラマはそういう仏教思想から抜けられないのかもしれません。


ユイちゃんが最終回に、あのトンネルの向こうにいくには、自分の家族の問題をすべて解決しておく必要があったのでしょう。