タクシードライバー ラストシーンまでの流れ

映画のお約束事。  主人公の逆ポジション

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。






物語を進めるのが主人公であるのが普通なのですから、物語の流れ−−>にそって動くのが主人公の本来のあるべき姿です。
それが、流れに掉さすように<−−のポジショニングをしている場合、

本来の居場所ではないところに主人公がいることを示しています。
それはつまり、主人公にとっての『逆境』であり、具体的には他人のテリトリーに踏み込んだ場合とかですが、上司の部屋を訪ねる場合や外国入国などでの主人公の逆ポジションは、ほとんどお約束事化しています。

または、暫定的な居場所にいる場合も<−−向きであります。暫定的な居場所では、その先に進んでも目的を叶える事は出来ないのですから、あまり長居は出来ないということをポジションが示しているわけです。お客様としての暫定的な滞在期間などは、逆ポジションになることが多いです。

それ以外には、
主人公が間違った事をやっているときであります。それをやっていては、物語が求めている目的を叶える事が出来ないのですから、主人公の立ち位置は逆向きになります。
また、嘘偽りの時なども、逆ポジションをとり、それが主人公の正しい姿でないことを暗示します。




デニーロが、他人のテリトリー他人の部屋に入り込んだシーン。
あまりにも幼い売春婦の事が気になって、売春宿の中まで入り込んでみたデニーロ。
お約束事どおり、デニーロは<−−向きであり、ここが暫定的な訪問先であることを示している。


映画全体を通しての、デニーロの異常人ぶりを考えますと、ジョディーフォスターに説教する場面のまともぶりは逆に浮いているように思われますが、
以下は、それがなぜ可能なのかについての映画文法的考察です。


ここはさっきのシーンと違って、ジョディフォスターの行きつけの店ではありますが、自分の部屋のような強固なテリトリーではありません。

じゃあなぜ、


デニーロが進行方向を向いている、この反転写真のようになっていないのか?

主人公が逆向きなのは、本来の居場所でない暫定的な場所にいるからであり、その暫定的な場所というのは、ジョディフォスター目線のデニーロのという意味でしょう。

いきなり売春宿にやってきて、お前の付き合っている男はクズだとか、実家に戻って学校へ行けとか説教する男って、
ひょっとするとひょっとして、当事者の女の子にとっては白馬の騎士のように見えても不思議ないはずです。

そういう女の子の期待に沿うように、多少の居心地の悪さを感じながらも、あえて白馬の騎士を偽装しているデニーロの微笑ましさ、
そういう風に考えていいと思います。

極論してしまえば、この画面のデニーロって、ジョディフォスターから見た姿であり、彼女の心を訪問しているゲストとしてのデニーロということです。

普通、心というのは外には現れず、いわゆる主観撮影というのは、AVなんかでよく行われますが、その人物の目の位置にカメラを置くのですけれど、
確かに実際に見える光景は、その人物のものに同調させる事が出来るかもしれないですが、それだけで、心理まで同調させる事が出来るわけではありません。

色彩、構図、画面の方向、音響などで、実際の心理の流れに近いものを偽装し、それを無意識的に観客に受け入れさせるプロセスが必要とされるのが映画なのですが、

だから、ジョディフォスターの心象光景を映像化したときに、その画面にジョディフォスターがいても別に問題はないのですね。

昨日見た夢の光景を子供たちに絵で描かせると、そこに子ども自身の姿が描き加えられるのが普通じゃないですか。別に主観カメラである必要は無いのです。


そして、彼女の服の色、メガネの変な感じ、体つきのポニョンとした感触とうが、彼女の心を視覚化した物のように思われ、

ジョディフォスターの心を訪問した時のデニーロ、自分にとっては、このシーンはそういうものです。

なんとも微笑ましい。

タクシードライバーくらいの変態映画だったら、ついでにロリコンもコンボでついてきそうなものですが、
心の奥ではどう思っているのかは知りませんが、少なくとも表面上では、デニーロは白馬の騎士のように、全くよこしまな心を見せることなくジョディフォスターに接します。




これは最後の襲撃シーンで泣き喚くジョディフォスターですが、
彼女がイニシアチブをとる場面でもありませんし、彼女の主観に同調させようという場面でもありませんから、彼女は<−−向きです。
さっきまでの、ほのぼのした感じが全て悪夢に変換されます。
白馬の騎士を待ち望んでいる小娘の主観を離れてデニーロをみてみると、所詮現実の彼の姿ってこういうもんだったのですよね。



ちなみに「レッドレターズ」という映画で、タクシードライバーにかなり近い状況にいる女の子を演じた谷村美月。二人の才能そのものは、そこまで距離はないと思うのだけれど、
映画二本は、比べるには絶望的な距離がある。
日本と外国では映画の進行方向が逆になるので、肉体的精神的虐待を受ける女の子の顔の向きも、ジョディフォスターと谷村美月では逆になる。


とりあえず、彼女の周囲のゴミを全員射殺したあと、残りの弾で自殺しようとする。あまりにもの淡白な自殺未遂ぶりに、拍子抜け。


警察が、踏み込んできた時、指で鉄砲の形を作り「プシュープシュー」と自殺する振りをしてみせる。

<−−指鉄砲の方向がネガティブなので、映画文法的には、彼は死んだ事になるのが普通。

じゃあ、その後の場面は、植物状態になった男の妄想なのか?というと、それ決め付ける根拠ってどこにも無いわけですよ。

それに対しては、イロイロな解釈が存在するだけであり、それぞれがそれぞれにとって一番気持のいい解釈を支持しつつ、他の人の意見にも耳を傾けることで、物語の解釈を豊かにしていくべきというのが、まともな大人のやり方でしょう。


一つの解釈として、自分の今現在の考えを述べますが、
社会的にみたら、それ破滅に過ぎないだろ?ってことですが、個人の主観にとっては、檻から抜け出せたようなすがすがしい気分ってエンディングっていうと、どこかで読んだような見たようなという作品というと、これ三島由紀夫の「金閣寺」そっくりじゃないですか。


もちろん、この後脚本担当のポールシュレイダーは三島由紀夫の人生を映画化しています。


1985年 ポールシュレイダー監督 ミシマ



体鍛える部分も似てるっちゅやぁ似てるでしょ

今のご時世になって、三島由紀夫は単なるガイキチの無駄死にだったと言い切れる人はほとんどいないと思いますけれども、
タクシードライバーの35年前って、まだ、なんと彼のことを解釈していいか分らなかったんじゃないでしょうか。

もしタクシードライバーの主人公が、自分の周囲の世界を醜悪で矛盾に満ちたものとして否定し、自分がそうあってほしいと思い続けていた世界観の方を選択した、そしてその結果社会的に破滅してもかまわない、生命を失ってもかまわない、そのように考えた上での行為だったとしたら、
ミシマと全く同じわけです。

嘘でもいいから、命をささげるレイディを見つけ、ドラゴンのような悪と戦い、そのためなら死んでもかまわない。そして、その騎士道の物語が見えるのは自分ひとりだけであり、周囲の人間からはキチガイにしか見えない。

騎士道と武士道を入れ替えたら、ほんと、三島由紀夫と同じなのですが、

ただ、ポールシュレイダーの「ミシマ」を見る限りでは、彼はミシマの人生についてかなり肯定的なのですね。

まあ、タクシードライバーのトラヴィスについても、そこまで否定的な立場を取っていないとは思いますけれど。

ミシマは緒方拳、盾の会のメンバーに三上博史発見


なお、介錯する森田必勝役が、「おにいちゃんのハナビ」で父親役だった大杉漣。さすがに若い。


市谷のバルコニーで演説する緒方拳の手が谷啓の「ガチョーン」になっている。日本人でもびっくりするほど、三島について細かく調べられている事に、正直ポールシュレイダーに尊敬の念を感じた。


タクシードライバーはポールシュレイダー一人の作品じゃなくて、スコセッシやデニーロも大きく関わっていますから、主要スタッフの間で、どこまで話を詰めていたのか分りませんけれど、

主人公って、ミシマみたいに死ぬ気満々でラストの銃撃戦に臨んだわけです。死んで本望みたいな感じですから、


このシーンの後に、実は死んでいなくて裏町のヒーローとしてもてはやされていて、そのことがまんざらでもないというラストに、説得力あんまり無いんですよ。
じゃあ、植物人間としてみている夢だったらどうなのかというと、それも
主人公、死にたかったんだから、植物人間になったときに、あんな中途半端な夢見るものだろうか?という気がするのですね。

普通は、自分ひとりにしか分らない妄想と虚構で人生を成り立たせる事に拒否感を持つのが一般人なのだから、
主人公に、取るに足りない後日談付け足して、妄想虚構で固めた人生のあほらしさの一面を示してみたい、というラストの解釈もあってしかるべきでしょう。

所詮一言で言うと、決め切れなかったのですね、ラストの意味を。
それで、なんか、とことん、悪夢が拡散していくようなラストで終わるわけです。


トラヴィスの命とか人生云々別にして、
トラヴィスの代わりになる奴なんかいくらでもいる。タクシードライバーなんかいくらでもいる。どうせお前らだって似たり寄ったりだろう。

そういう後味の悪い映画です。

なんかゾンビ映画とかでよくありそうな、次回作の仕込みを済ませたようなラストです。


そして
自分にとって、一番重要なことは、どうして一般観客は、こうも映画の進行方向に無自覚なまま、映画制作者の仕掛ける罠に好いように落ちていくのかというと、ストーリー追いすぎるからだと思うわけです。
本来ストーリーを画面から読み取るのって、だるいし、疲れるし、脳みそ使いますから、そこに集中しすぎると、まんまと騙される事になるのです。

まあ、世の中の国語のテストとかで、ストーリー正しく読み取れって練習やりすぎなんだと思うんですが、