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『あまちゃん』 ラストシーン

わたしは、公立中学二年生30人学級の上位7人くらいが分かるような文章を書くことをモットーとしているのですが、


知性とは抽象化能力の高さである、という定義があります。

→ → → → → → ←

矢印を7つ並べて、最後の一個の方向を転換させます。

そうするとどう見えますか、

今まで続いていたものが断絶した、終了したと見えませんか? 

そう見えるだろうことを利用しているのが映像表現というもので、これは映像文法の根幹です。
映像とは、実のところ極めて言語性の高いものです。



電車男





移動を表すシーンの場合、 同一方向 → のカットをつなげ、
最後に逆方向 ← の楔カットをつなぐことで移動が終了し、目的地に到達したことを表しています。




集団の移動の場合でも、ほとんど同じになります。

『クオ・ヴァディス』






ローマの軍隊の凱旋シーン。
チャリオットが ← 方向に転換して停止すると ローマを見渡せる丘の上に到着していました。



未来少年コナン』のOP

曲の最後まで ← 方向に移動を続け、ロケットの残骸の上で → 方向を見るカットで終了します。


つまり、コナンとラナが移動の果てに見つけたのは、ロケットの高台から見下ろせる新しい世界だったということです。


興味のある方はこちらもどうぞ
より詳しく書いてあります。
映画が抱えるお約束事


あまちゃん』のラストシーンも ほぼこの線に沿っています。

堤防を全力疾走するのは、基本 ← 方向。

ラストカットは → 方向を仰ぎ見る二人。

映像は、一般的に思われているよりもはるかに言語に近いものなのですが、

半年かけて女の子二人がたどり着いた場所というのは、ここであり、
田舎を檻のように感じていた若いころの春子さんの絶望感を乗り越えた先にある未来は空のように広い世界だった。そして二人の未来は灯台の明かりによって導かれる。

わたしが、この画面を日本語に翻訳するとそうなります。

そしてわたしの画像から言語への翻訳に対し違和感を持たれた方は少なからずいらっしゃるとは思います。
もちろん、映像をいちいち言語に翻訳できるのか?について疑問を持たれている方も大勢いるのは了承しておりますが、

可能性は二つあります。

一つは、単に私が深読みのし過ぎであること
もう一つは、映像の力が伝えようとしたメッセージに追い付けなかったこと

以下の記述は、下の方の可能性が正しいと仮定した場合のものですが、

私の考えでは、映像作品の良しあしは、ラストカットが素晴らしいかどうかにはあまり多くを負ってはいません。
特に『あまちゃん』のように40時間の作品のラストカット一枚が作品全体に与える影響などたかが知れたことです。


もしくはこう捉えることもできるでしょう。
アキちゃんが海・ウニ・死ねの落書きを踏みしめてジャンプしたとき、

これが事実上のラストカットで、

最後の灯台のカットは、いわゆるエンドロール。
映画にも、このパターンはよくあります。

たとえば、この映画です。
テルマ&ルイーズ


最後の逃走シーンは9割がた → 方向に走り続けます。


そして、『あまちゃん』で採択されたカット


リアリズムで考えると、この場面で人生終わりなんですが、映像文法的には、まだ二人は生きていますし、まだゴールにはたどり着いていません。


物語が終わった後のエンドロールはほとんどのカットが ← 向きです。
エンドロールにあわせたBGMは讃美歌のようなもので、テルマとルイーズのたどり着いた場所は天国。死んだというよりも ありきたりの人生の意味を乗り越えたというのニュアンスを帯びているようです。

このようにテルマとルイーズは作られていますから、車が崖に飛び込んだときには、異様な爽快感があります。


このように画面を見ていますと、『あまちゃん』のラストは『テルマとルイーズ』が持っていた爽快感を取り入れようとしたのだということは誰にでも分かります。
もしくは、海に飛び込むことのなかった二人に飛び込んだようなニュアンス、もしくは、空にでも飛び立ったかのようなニュアンスを加えたかったのだろうという推論は飛躍でも何でもないでしょう?

普通の人はこのように映画を見ていません。見えているはずなのですが、映像はデータ量が多いですからわたしたちはストーリーという形にまとめて端折ってしまいます。

テルマ&ルイーズ』はDVDのデータ容量にして4G以上ありますが、
「犯罪にかかわってしまった女二人が行き詰って自殺した」そんな風に要約してしまうと、データ容量はわずか数キロバイトです。

テルマ&ルイーズ』を「犯罪にかかわってしまった女二人が行き詰って自殺した」という痩せた情報量に圧縮している限り、
あまちゃん』のラストが『テルマ&ルイーズ』と重なって見えることはないでしょう。


テルマ&ルイーズ』の監督はリドリー・スコットなのですが、
エイリアンのラストもほぼ同様のスタイルです。


『エイリアン』ではシガニー・ウィーバーは ラスト30分間 →方向へ逃げ続けます。


最後のカットは、 ← 向きに人工冬眠機で眠ります。



ストーリーが乗っかる映像作品を私はこのように見ているのですが、
「『あまちゃん』のラストは『キッズリターン』へのオマージュなんじゃないか?」というのは何の客観的論拠もなく、わたしにとってはものすごくつまらない意見なのですね。

あまちゃん』のラストに『キッズリターン』の情感を個人の脳裏で接ぎ木してしまうことは、個人の自由ですから全然かまいません。
そして、トマトライスの上にオムレツを乗っけて食べたらおいしいよと他の人に勧めることも全然かまわない個人の自由でしょう。
ただしかし、そういう食べ方を好まない人もいるでしょうし、わたしはビートたけしの映画は好きではありません。
あまちゃん』のラストが『キッズリターン』とつながっていると町山智弘氏のように影響力ある人が言うことにより一定レベルの定説になってしまうことは、つまらないなと私は思います。




潮騒のメモリーズで 訛ってるほうは左で可愛いほうは右


テルマ&ルイーズでは きれいな方が右

ちなみにテルマ&ルイーズのきれいな方

「見た感じはなんか前に見たような気がするんだけど、体が裂けてなんか出てくるやつ」
ザ・フライ!…エイリアン!」

桐島、部活やめるってよ
何百本も映画を見ていると、こういう連想が楽しくなってくる。

ちなみに、私はトマトをみそ汁に入れるのが好きですね。そしてなぜうまいかについての客観的理論も述べることができます。

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