「パンドラ」

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。







映画の発達は、戦争の為の光学機器の発達に後押しされており、
戦意高揚を狙ったプロパガンダの需要も重要な役割を果たしました。

第一次世界大戦第二次世界大戦により、映画はその形態を進化させ41年の「市民ケーン」の頃には今日の映画がほぼ完成します。



戦争を画面上で表現するなら、敵と味方はそれぞれ明確に左右に振り分けられます。
そして味方が敵を圧倒するに従い、画面は <−方向に進んでいくことになります。

また、<−サイドには頼りになる味方が陣取ることになります。

そして戦闘以外のシーンでも<−サイドに立つ人物は、味方であり、イイものであるのが普通になります。


そして、戦闘の目的は勝利であり、勝利は<−の進行方向の先にありますので、観客の視線も自然と<−−向きになり、それゆえ<−の人物に感情移入するのが普通になります。

<−サイドに立つ人物は、味方、イイものである以外に、観客の感情移入の対象として提示される事が必然多くなります。
感情移入しうる登場人物とは、どのようなキャラクターであるべきなのか、
それは一般的観客にとって理解しやすい人物ということであります。



「トリック」に於いては

仲間ゆきえの方が、どちらかというと普通の常識人で、それゆえ上座に位置しますが、


阿部寛のほうは、異常人であり、それゆえ下座に位置することとあいなります。

「トリック」では、観客は、どちらかというと仲間ゆきえに感情移入しながら、阿部寛を変人と看做しつつ観察するというスタンスで鑑賞する事となります。




「パンドラ」
映画・ドラマが戦争を扱っていないとしても、画面構成は「戦争」を表しているのかもしれない。
画面が映しているのは、上座の人物と下座の人物間の戦争である、もしくは二つの価値観・立場の戦争といえるかもしれない。

視聴者は基本的三上博史に感情移入しながら見る。彼が主人公であり、彼の癌研究が物語の核になる要因だからでもある。つまり彼が何かをすることにより、物語が進展するので、彼の向く方向は<−となる。

谷村美月演じる不良少女は、三上博史演じる科学者を振り回し、物語をあらぬ方向に引きずりまわす。いわば物語の進行を迷走させる役をになっている。それゆえ−>と逆方向を向き下座を定位置とする。



画面に於いて頻繁に登場人物が左右の位置を交代するのはなぜであろう?
俳優の顔を両方向から満遍なく映したいからだろうか?
そう考えるよりも、こう考えた方が都合がいいだろう:観客は、基本的に主人公に共感しながら見ているのだが、時には対立キャラクターの立場に部分的ではあれ共感する事が出来る。

主人公が堅物の場合、時にはその堅物さを観客は退屈と感じることもあり、その場合には対立キャラクターの方がより正しいとさえ感じる。

もしくは、敵役であろうとも、時には真理を代弁することだって有る。

そういう事を画面が観客に対し指示している、誰にどの場面でより共感すべきかを画面が指示している、そう考えると登場人物の位置変換、左右の向きの変換について難しい事は何もなくなる。


キャラクターの立ち位置によって、どちらのキャラクターが代弁する価値観が優勢であるかを示す事が可能となる。本来観客が共感しうるより一般的な価値観が、そうでないはずの価値観に圧倒され言いくるめられようとしているときには、−−>方向に画面が圧迫されてゆく。逆に正論であるべきはずの価値観が勝利を収めようとしているならば、画面は<−方向に圧力が加わっていくことになる。

三上博史の言い分が、谷村美月の反論を圧倒してゆくに従い、二人の立ち位置は徐々に<−の方向に圧迫されてゆく。

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