「コドモのコドモ」2 上野樹里

無駄に有名な俳優が多数出演している「コドモのコドモ
ついでに主題歌は奥田民雄。

更に言うと、地方自治体から補助受けていながら、制作費が三億円。

無駄に力が入っている作品。



そんな過剰な無駄さの象徴とでも言うべき場面が、上野樹里の出演三分間。

自分、さっき見直すまで上野樹里が出演している事に気がついていなかった。そのくらい必然性も何も無い過剰なシーン。

谷村美月の場合は、映画やドラマに3分間出演ってよくあるんですが、
上野樹里の場合、「スィングガールズ」で好評得た後、基本一貫して主役ですから、こんなチョイ役で出てくるなんて、観客予期していません。

なんというか、主人公のお子ちゃまが、スナックに行ってアディダスのシューズをもらう場面。
そこのスナックのママが、なぜか上野樹里で、

何でこんなところにこんな人がいるのだろう、
この人は何か深い理由があってこんなところに閉じ込められているのに違いないとかいろいろ思考させられる。

「ほしかったんだ、し…、はらう」
主人公がチャリーンとポケットの中に入っている小銭を全部カウンターの上に出す。「いくら、ですか?」

「12万円!」凄む、上野樹里。実はぼったりバー経営してるのか、上野樹里は、という感じなんですが、


「12万円」というのは中絶手術の費用なのですわね。


たった三分、それも話の本筋と何の関係も無い場面での演技というのは、
本筋と関係の無いだけに、どんな愚作であろうと、その3分間だけは本筋からの悪印象から自由であり、愚作のオアシスというものが成立しやすく、谷村美月は、ほぼそのスペシャリストなのですが、

この「コドモのコドモ」では、上野樹里がそれをやっています。

正直、「コドモのコドモ」って、まともな観客が共感できる人物がほぼいないのですね。誰にも共感できないまんま、じりじりとストレスを感じつつ、物語の荒唐無稽さにいらだっているうちに映画が終わるんですが、

似たようなテーマを扱っている「14才の母」の場合、主人公の志田未来って周囲からそうとうひどい目に合わされていて、見ているほうはそれに疲れてしまって、
「もういいから、子供産んじゃって話しすっきり終わらせて」と根負けするのですが、
コドモのコドモ」の場合、そういう展開にならず、主人公の周囲のコドモがみんな善意で協力的というありえない展開だったりします。

それで、11歳で出産という、ありえない結末にぐいぐい進んでいくのですが、
まあ、周囲の冷たい感情にさらされたりでもしたら、11歳で出産なんて結末には絶対に至らないはずなのでしょうが、


そんな中で、唯一主人公に辛く当たる?のが上野樹里のぼったくりバーもどきの「12万円」というリアクション。

『お前、お子ちゃまで金も能力も無くて大人に寄生して生きているだけなのに、何偉そうな事言ってんだよ、バーカ』


上野樹里の演技、そういう風に見えるのですよね。
こういう、カメオ出演の場合、脚本最初から最後まで熟読したりするものなのでしょうか?

上野樹里なら、熟読しているかも知れんな、と自分は考えた。



それ以外にも、スナックの壁の棚に並んでいるのが、ほとんどジンロのボトルで、貧乏くさい。
10代で勢いで男と結婚して、しばらくして失望して、しょーも無い田舎の片隅に縛り付けられている女、そういう存在感を出そうと上野樹里つとめていたのかもしれません。
そんなだから、主人公の歯が抜けた事に対しての対応が、妙に易しかったり、その逆に金の事に対してはアンバランスに凄んだり、



なんで駄作荒野の三分間オアシスが成立してしまうのかというと、
物語りの本筋と関係ないので、俳優個人の考えが大きく反映されやすい。演出する側も、映画の気分転換みたいな感じで、それまでの流れから逸脱する事に寛容だというのもあるでしょう