印象派絵画から『あまちゃん』まで

印象派絵画、まあ、下手な絵なんですけど、
わたしにとっては、バブル期に日本中の美術館が買いあさった事実から、金にまみれた絵画スタイルという印象がものすごく強く、嫌悪感がいまだぬぐえません。

なぜ、このような絵画が大枚はたいて売買されるようになったのかについてはいろいろな側面があります。それを語るのは面倒くさいので、やりません。

150年前のフランスで生まれた印象派絵画のスタイルですが、
これが美であるかそうでないかについては別として、
人間がものを見るとき、どのように見ているかについて考えさせてくれる教材としては、面白いものです。

このブログで再三書いてますけれども、私を含めて、ほとんどの人間は、映画の画面をあんまりまじめに見ていません。
その一番の証拠として、
画面上の人物が右を向いているか左を向いているかなんで、見ている人は誰も気に留めていません。
この点に関しては、映画の抱えるお約束事という箇所で延々と私は論じております。

今回は、別の側面から、人間がものをちゃんと見ていないことをいかにして利用して映画の画面を作っていくかということを、印象派絵画と絡めて述べるのですが、

観客は、大抵、ストーリーを脳裏で紡ぎだすに便利な人物(これは大抵主人公ですが)の近くに視線の焦点を合わせ、それ以外の箇所はぼんやりしたままです。

モネの絵画で言いますと、


この赤円部に目の焦点が合っているのでしょう。
朝日、水面に映る陽の影、漕ぎ手とボート、マストの影、
マジメに描かれているのは、それくらいです。

それ以外の箇所は、人間の目の焦点から外れる辺縁部であるらしく、ものすごく手抜きで描かれています。

辺縁部をまじめに描写しないというのは、初期印象派の特徴ですが、
人間のものの見方って、大体のところ、こんなものです。
この光景にじかに接した人間って、この赤円しかまじめに見ていなくて、その外側については、ほぼ見ていないでしょう。
そして、このモネの絵を見る人にしたところで、赤円のうちだけを見て、きれいだとか「美術好きな私って文化のわかる通」とか思って悦に入るのですが、
そういう人にしたところで、赤円の外側について、「この雑な筆むらが人類文化の至宝」とか思ってみてるわけはないでしょう。
そして、残念なことに、「この雑な筆むら」が20世紀の美術の本流になってしまいます。


「ハーイ、みなさま、こちらの絵画50億でお買いになりません?見るものすべてを美の無意識に対面させる素晴らしい絵画です、50年後は5倍の市場価値があるはずですよ」





それはいいとして、
モネが周辺部の描写を無視したように、見る方も周辺部を無視しています。

そして
手抜きで、さっさと塗りつぶされる辺縁部は、いったい何なのかというと、
描いた人が景色をぱっと見たときの印象であり、もしくは、描いおた人がその時に感じていた心の内面なのかもしれません。


だから精神分析的にいうと、こう言えるかもしれません。

これ、映画の場合どうなるかと言いますと、
どうせ、人の目の焦点から外れる部分なんて、ちゃんと見られることはなく、無意識的にしか受け止められることがないのですから、
登場人物の無意識を表現するツールとして使用する、または物語の感情トーンを形成するために使用するわけです。

背景を人物の心理を代弁するものとして利用する手法は、文学ではずっと使われているものでして、
「彼女の心は青い空」とか「雲から涙がこぼれてきた」みたいなことを言葉にしてしまうとポエマーっぽくてこっぱずかしいのですが、映像、画像でそれをやられた場合には、わりにすんなりと受け入れることができます。わたしたちはポエマーという言葉で詩を書く行為を恥ずかしいものと貶めますけれども、

恥ずかしいことと間違っていることは、全然別のことでして、
恥ずかしくて正しいこと、恥ずかしくてかっこいいこと 等はいくらでもあります。



あまちゃん』 ユイの部屋

すさんだ心情を、すさんだ部屋を示すことで表現しています。
個室とは、個人の最大限の自由が許される空間ですから、
個人の心を表現する際に非常によく利用されます。

部屋=心 そのくらい図式的に思い込んでも大丈夫です


ガンダム富野喜幸が面白いことを書いていて、
時代劇とかSFは、画面構成が難しいそうです。

それはどうしてかというと、「100年後の宇宙船を想像するよりも、100年後のボールペンを想像する方が難しい」という言葉がありますが、
100年後の世界を映像化すると、一木一草ボールペンからカップラーメンまで、物珍しいものにあふれてしまいます。
本来、画面の中では主人公周辺で物語が進むのですから、観客の視線は、主人公周辺に行きますし、そうなるべく画面構成がなされるのですが、
観客の目を引き付けるようなものがいくつも画面上にあると、どこ見ていいのかわからなくなって散漫な印象を得ることになりがちです。

無論、そうさせないために、画面のピントを観客が注意すべき個所にあわせて、それ以外をぼやけさせてしまう手法は当然のことです。
そうすれば、画面が伝える情報はすっきりしますけれども、


情報量の少ない、痩せた画面になって、つまらなかったりします。


画面の情報量を増やして、散漫になるリスクを冒すか
画面の情報量を減らして、退屈な画面にしてしまうか、

難しい選択です。


そんなことを考えて、橋本愛の出演作品を見ていると、驚くのですが、

たとえば
室内装飾が職業の人にとっては、映画を見るということは、撮影された室内装飾に注意が行ってしまうことであり、
飲食業の人にとっては、テーブルの上の料理に注意が行ってしまうことですが、

それらの注意の在り方は、それほど一般的ではないでしょう。


しかし、画面上に、美女・美少女がいる場合、何やったところで男の視線はそちらに向いてしまいます。
100年後のボールペンや1000年前のぬいぐるみが必然的に視線を集めてしまうように、
美少女も人の注意を集めてしまうので、下手に使うと画面構成をぶち壊してしまいます。


画面の中央から外れていようと、多少ピントがぼやけていても、つい、彼女見ちゃうんですよね。

そういう美少女って、主役か重要な意味を持った脇役しかできない訳で、
桐島、部活やめるってよ』では、重要な意味という点で、ものすごく成功しています。


こういうことを考えつつ、『あまちゃん』を見ると、なるほど、と唸らされる点が多々あります。

正直、わたくし、朝の連ドラというものをくだらないと思っておりました。
いくつかの例外はあるとしても、たいていがどうしようもない番組で、テレビのリモコンの使い方も覚えられない程度の人間が見るものとバカにしていたのですが、

まあ、たとえば、『梅ちゃん先生


戦後のバラックという設定で、生活調度も不足していた時代ですが、それにしても、生活の匂いが全くしないセットです。
画面を一時停止にして、仔細に備品をチェックしたいという気にはなれません。

分かりやすい画面と言えるでしょうし、痩せた画面ともいえるでしょう。
そして、『梅ちゃん先生』自体がそういう作品であります。

それと比べて、『あまちゃん

どんだけ作りこまれているんだ?というセット。


とにかく情報量が多い。その反面、視聴者がどこ見ていいのか分からなくて散漫になるリスクを抱えます。

同じ橋本愛が出ている作品ということで、『桐島、部活やめるってよ』と比べてみますと、とにかく画面上の情報量が多い。
映画は2時間弱ですから、『あまちゃん』と同じことをやると、散漫になって物語を語りきれないのでしょう。

ただし、『あまちゃん』は40時間近い放送時間がありますから、これくらい情報量多くしても、見てる人はちゃんと噛み砕けますし、
毎日録画して、三回繰り返し見てた人がいたってのもうなづけます。


カーネーション

朝の連ドラのレベルを大きく逸脱したクオリティの『カーネーション』ですが、
画面の作り方は、『梅ちゃん先生』と違って細部も品よく作りこみますが、『あまちゃん』のように乱雑で散漫になるようなことはしません。
普通は、『あまちゃん』よりもこちらの方が優れていると評価されるのでしょうけれども、

あまちゃん』の目指した場所、たどり着いた場所というのは、『カーネーション』とは異なるところでした。


自分の部屋に女の子を連れ込んで、話のついでに写真なんかとったりして、
その写真を見てみると、タンスとかテレビ台の上の100円ショップで買った小物がものすごく煩い。本棚の背表紙の色がものすごく自己主張が強い。
肝心の女の子の存在感が、かすんでしまう。そういう経験は多くの人が持っているとは思います。

そういうことをきっかけに部屋を整理してすっきりさせたりするのですが、

あまちゃん』ってその逆なんですね。

ホワイトボードの青ペンを整理して画面から消したくなるのが人情というもんでしょうが、この作品は、そういうことをしないというか、あえて映しこみます。



喫茶リアスですけれど、わたしには、平泉成のポスターが気になってしょうがない。

人間にとって一番気になるのは、他の人間ですから、
人の顔って、必然的に注目を集めます。
たとえポスターであろうとも、ものすごく画面上の存在感が強い。

見た印象としては、「場の空気が全く読めない人」が画面上に一人いる、そんなとこです。

こういう画面の作り方が、散々繰り返される小ネタに対応するようなユーモアとして『あまちゃん』では機能しています

どんなにまじめな話をしていても、どんなに暗い場面であるとしても、画面上には、膝カックン系のゆるいものが映しこまれています。
うに丼」とかそういうの。

人生ってそういうもんですよね、
自分の家族が死んだり、自分が片足失ったりしたところで、
関係ない人は普通にテレビ見て馬鹿笑いしてるもんですし、
自分の悲しみだけで世の中塗りつぶせるわけではありませんから。