映画の批評というと、この手のキャッチコピーでっち上げることが主な役割、そんな風に私は考えておりまして、
それ故、映画の批評というものをまじめに読む気にどうしても私はなれないのです。
どうして、映画の批評というものが、ちゃんと映画について語ることもなく、キャッチコピー考えることに終始しているかというと、
映画の批評読む人のほとんどは映画を見る前の人でして、映画見てから批評読む人なんてほとんどいません。
五つ星満点で星幾つなのか?金と時間の元は取れるのか?女の子つれて行ったらその晩うまくやれるのか?子供つれて行ったら、泣き出したりしないだろうか?
そういうことをチェックするために読むのが「映画評」でして、
中には、映画観終わった人のためにちゃんと書いているものもありますけど、
まあ、映画雑誌に書かれたようなものは基本的にみる前の人に読ませることを想定しているものです。
それ以外にも、映画を語ることって、簡単なんで誰でもやっちゃいますけど、
実のところ、映像のサンプルやキャプチャー画面なしに、何語ることがあるんだろう?
ほだから、文字だけで書かれた「映評」をどうしても真に受ける気になれない。
映画の裏事情とか、役者の経歴とか、そういう情報ならわたしもそれなりに興味ありますけれども、
それにしたところで、金払ってまで知りたい情報かといいますと、うーむ、
それはいいとしまして、
「悲しみのトンネルを抜けるとそこは夢の国だった」
私も映画に対して、ついキャッチコピーなんか思いついたりするのですが、
これはどうしてかというと、映画を活字でも読むみたいに読んでいくと、こういう言葉って画面に書かれているんですよね。
ナルニア国ものがたり ライオンと魔女 より
開始5分のプラットホーム別れのシーン。
ママとの別れのつらさ。
ママと子供たちの立ち位置の関係から、この映画はファンタジーを媒介にした親離れ子離れの映画なんだろうか、開始5分で既に勘繰ってしまう。
そして汽車はどちらに進むのかはっきりとした方向を見せない。
陰鬱な天気、子供たちの晴れない表情、そして汽車がトンネルに入る。
その時の進行方向 ⇒ この行く先に物語の目的が待っています。
トンネルを抜けると、緑きらびやかな光景。空襲の陰惨さが緑の輝きで洗い落とされていく。
ちょうど音楽もからりと晴れあがり、画面にはタイトルが表示される。
タイトルと交差するように汽車は ← 方向に切り替わるも、
次の画面からは、3分くらいにわたって 汽車、馬車、徒歩と手段を変えつつも →の方向にぐいぐいと進んでいく。
末っ子のルーシーがナルニア国への入り口の衣装ダンスのドアを開けて中に入っていくのですが、
この展開にかなり唐突な印象を私は感じてしまいましたが、
もうすでに4人兄弟姉妹は→方向にどんどこ進行していましたので、余計な説明もいらないと制作サイドは感じたのでしょう。
まあ、どこが魔法の国の始まりだったのかというと、汽車がトンネルをくぐった時がそうだったのであり、
現実の世界の美しい森や田園の光景、そして年代物の大邸宅というのは、それで十分に子供たちにとっては「魔法」の存在なのでしょう。
というか、作中の子供たちというよりかは、この映画を見ている特にアメリカの子供たちにとってはイギリスのこのような光景は、ナルニア国の光景と根本的な差はないのでしょう、きっと。
ルーシーは、期せずしてこの入口を見つけてしまったのですから、
目的を見据えてナルニアにやってきたわけでないことを画面上で表現するかのごとく、彼女は後ろ向きにおずおずと入ってきて、
それからゆっくり振り返ります。
そして、振り返ったら、そこは雪国だったんですのね。
まあ、川端康成もトンネル好きですけどね、
わりに陳腐な誰でも思いつく道具立てだと思います。
映画ではここまで13分なんですが、
小説ではどうなのかというと、
ライオンと魔女―ナルニア国ものがたり〈1〉 (岩波少年文庫)
- 作者: C.S.ルイス,ポーリン・ベインズ,C.S. Lewis,瀬田貞二
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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映画でのナルニア国に到達するまでの展開が早すぎないか?と私は感じましたが、小説はもっと早い。
ちなみに誰目線で小説はここまで描いているかというと、
最初の一ページで、4人が大邸宅にどうしているのかの説明がなされます。
これは、アナウンサーによるナレーションのような叙述で、単なる状況説明です。
それから、4人がどんな子供であるかが説明されますが、
地の分で説明するのではなく、4人の会話でそれぞれの個性を描き分けているのですが、
これ、
会話文からそれぞれの個性を読み分けることは、子供にはかなり難しい作業になるでしょう。
ていうか、大人でも難しいです。
4ページ目になると、かくれんぼを始める朝になっています。
そして、このかくれんぼの描写から、登場人物の視線が読者に強制されるようになります。
「次の朝になってみると、ざあざあ降り続く、ひどい雨で、窓からのぞいても、山はもとより、森も、庭先の流れさえも、見えませんでした」
窓から覗いてもといいますが、窓からのぞいたのは誰ですか?無論子供たちです。
見えませんでした、と有りますが、誰にとって見えなかったのかというと無論子供たちです。
作中の子供たちが知覚できるものを主体に描写することで、かれらに近い立場を読者に強制している訳です。
しかしながら、読者はいやいや4人兄弟の視線を共有しているのではないでしょう。
物語の中での冒険を一番待ち望んでいたのは読者ですし、むしろ待っていました、といったところではないでしょうか。
子供向けのファンタジーでは、冒険が始まった時に物語が動き出し、主人公の視線と読者の視線が一致し始めます。
これは、この前取り上げた『トムは真夜中の庭で』と全く同じです。(まあ、この2つはストーリー基本的に似た構造しています)
それと比べると映画は、画面の情報量多いってのもあるでしょうし、リアリティ度合いが高いから無茶な時間の端折り方できにくいってのもあるのでしょう。
どうして子供たちが、ここにいるのかについての説明を長々やらざるを得なかったからでしょうか、
冒険の始まりは、汽車がトンネルをくぐった時と小説よりもかなり早めの場面に設定されています。