『続・猿の惑星』  すべての未来はローマに通ず

もうすぐ新作の公開される『猿の惑星』シリーズですが、アメリカでの評判は絶賛に近いようです。

10年前のティムバートン作のリメイクは目も当てられないような不評だったんですがね。


まあ、それはともあれ、オリジナルの『猿の惑星』続編として作られた『続・猿の惑星』ですが、

まあ、面白くはありません。

しかしながら、このツマラナさ加減が三作目の『新・猿の惑星』に於いてチンパンジーが現代の地球にやってくるというびっくり仰天な展開につながり、三作以降をカルト映画の名作にしているのだなぁと感じさせてくれます。


まあ、なんにしろご都合主義の柳の下のドジョウみたいな映画なんですが、

なるほどと思った箇所がありまして、


アーサーCクラークの法則で、
未来の高度な技術というのは、現代の人から見たら魔法にしか見えないはず。今の人間が見てその原理の尻尾が捕まるようなものであるならば、その程度の技術は数年後に実現化してしまうはず。それゆえ、はるか未来の技術は魔法と同じ洋に扱うべき


というものですが、

まあ、大体アメリカのSF映画というものは、未来の生活を描くときには、ローマ帝国の上流階級が奇奇怪怪な魔法の道具を使っているというもので、

今生きている人たちが体験しうるような近い未来を扱っていないSFでは、たいてい魔法の杖や空飛ぶじゅうたんを持った古代ローマ人という形で未来の生活が表現されるものです。



その世界観の映画で一番有名なものが『スターウォーズ』でして、登場人物がとらわれている社会体制が帝政と共和制の対立という、ローマ帝国の社会問題そのままであります。




『続・猿の惑星』に於いて、核兵器を神のように扱う滅び行く人類の末裔たちは、ローマ帝国の市民というよりも、ローマの迫害を逃れて地価墓地に集まった初期キリスト教との様でもあり、さらにどちらかと言えば、古代ギリシャとローマを復興させようとしたルネサッス期のような服装をしています。


何で未来の人類の姿、科学が究極まで進んだ世界をアメリカ人が無邪気に空想したときに、古代ローマ人やルネサンス市民が魔法の道具を使いこなしている姿担ってしまうのでしょう?


何世紀にもわたり、西洋人の先祖が過去には輝かしい時代があったと夢想し続けてきたことがあると思われます。
中世から近世近代へとヨーロッパは小国に分裂して互いが血まみれの争いを延々と繰り返してきたのですが、そのような小競り合いと虐殺にあきあきした彼らは常にヨーロッパを統一していた(正確には地中海周辺でありますが)ローマの存在に憧れ、それが何らかの形で再現されることを望み続けていました。

ナポレオンはローマ皇帝の位に就くことには成功しましたが、ヨーロッパを統一することには失敗しました。ヒトラー共産主義も失敗でした。
今のEUはそういう流れの中で生まれてきた政治体制もしくは緩やかな経済統合の姿なのですが、ここまで延々とローマ帝国の復活を願い続けているのがヨーロッパなのですから、
現代人の欲望がことごとく満たされる遠い未来の姿を夢想したときには、その姿は必然的にローマのものに似てしまうのでしょう。もしくはローマの復活にあこがれたルネサンス期の姿に似てしまうのでしょう。



2001年宇宙の旅』の終盤に突如ロココ調の部屋が登場しますが、アーサーCクラークのノヴェラゼイションによると、あの部屋の内装というのは、人間をもう一段上の段階に進化させる任務を負った宇宙人の宇宙船の内装だそうで、ボウマン船長はディスカバリー号ではなく宇宙人の宇宙船に乗って地球に戻ってくるそうです。

そのような高度な技術の宇宙船がいったいどんな仕組みでどんな内装であるべきかなんて、現在の私たちの知識の限界を超えたところにあるわけですから訳分からないべきものであるのが、アーサーCクラークの法則的には当然なのでしょうが、
一応、ノベラゼーション中では、宇宙人がボウマン船長の意識をスキャンして、そこから最も人類的に美しい内装のイメージを抽出して用意したものということになっています。
ロココ調がいちばん人間にとってしっくりくるのかどうかはわかりませんけども、

ロココというのは、
ロマネスクー>バロックー>ロココの流れでルネサンスからつながるスタイルなんですが、
ルネッサンスのスタイルが、ギリシャローマの廉価普及版的なものであることに飽き足らなくなった欧州の美意識はバロックの異様なデザインに行き着きますが、


先んじたバロックが構造体まで歪ませようとするスタイルであったに対し、ロココは表面を磨くだけで構造体はギリシャローマ的なシンプルなものに回帰しています。
細密画のような装飾を排除してしまえば、ロココというのは、パルテノン神殿の内装と大差ないわけです。