千と千尋の「北枕」

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。











映画には「北枕」というものがあって、基本その頭の位置で寝るのは死人のやることであり、「北枕」から起き上がるのはゾンビだけ、という事を書いていますが、
(『風の谷のナウシカ』映画の中の北枕)


千と千尋の神隠し』もしかすると日本で一番有名な日本映画のみならず、世界で一番有名な日本映画です。

最初のカットから、千尋は「北枕」で寝ています。たしかに都会のスレて怠惰なガキですから、ある意味では死人と同じと言えるかもしれません。


えっ?と驚かされるのは、千尋はそのまま起き上がってしまいます。
普通は「北枕」は死人の眠り方ですから、そのまま起き上がるのはゾンビだけ。もし「北枕」から起き上がるなら、説得力のあるカットをつなぎ自然な形で方向転換を行い、「北枕」の瀕死状態から脱した事を説得するのが普通です。




画面には進行方向がありますので、その流れに逆らって起き上がることは、画面進行の残像イメージと重ね合わせると困難に思われます。それ故、普通は起き上がることの出来ない瀕死の人や死体がこの「北枕」で寝ています。

それに対して健康なキャラクターは、随意に起き上がることが出来ます。この画面の流れに沿って頭を起こすと、自然に軽々と起床できるように視聴者には見えます。


この映画やドラマ、アニメで見られる「北枕」というのは、お約束事ではありますけれども、それは、例えば能やカブキで行われるような目の上に手をかざすと遠くを見ている演技の意味になると言うような観客が知っておくべき知識としてのお約束事では在りません。

二次元で物語を展開させる為に効率のよい方法として製作者側の間でお約束事化している意味でのお約束事であります。


千尋はテーマパークの中で一体何をやっていたのか?
物語の中では主として豚になった両親を救い出す為にがんばっていたと言う事になっていますが、
よくよく映画を見ていますと、両親救う為に具体的に何をどうしたか?という事はないのですね。両親の救出は完全にタナボタ式に千尋に与えられます。そして千尋にとっては両親の事よりもハクのことのほうがずっと重要な事だったじゃないですか。

では、千尋はテーマパークの中で一体何をやっていたのか?

冒頭の「北枕」からの起床のシーンの意味というものを物語の展開の中で考えてみると、千尋はゾンビになった自分を真人間として甦らせるためにテーマパークの中で人生体験しなくてはいけなかった、という解釈が妥当だろうと思われます。

ゾンビから甦るという言い方が分りにくいのでしたら、怠惰で生命力の枯れた子供が、社会とは何か、他人との関わりとは何か、生きていくこととは何かを学んだ上で人生の出発点に立つ物語と言ったらいいでしょうか。

ある意味説教くさい臨海教室のようなものかもしれません。もしくはエンディングの「いつでもどこでも」の歌詞そのままの物語なのかもしれません。

そして、やはり奇妙なまでに両親の豚という設定は方便以上のものに感じられません。

そして気がつくのですが、宮崎駿の作品群というのは、家族の存在は常に希薄です。
家族の存在が希薄であるゆえに、説教くささも許されるのかもしれません。
家族の重みがあり、尚且つ説教くさい作品というのは、そのまま家庭での説教と変らないではありませんか?

実は千尋は映画の中で常に「北枕」です。

テーマパークの中は、生きていない世界ですから、千尋が死者と同じく『北枕」であるのは自然な事でしょう。
ただし、起床するときは細かいカットをつないで、ポジティブ方向への起床に方向転換しています。

これは、千尋がゾンビ状態から快癒している状態の比喩、…比喩と言ってはいけないでしょう。映画とはそういう教養主義とは本来無縁のものです。誰が見ても分る、いや、むしろ無学なほどのめりこめるようなものでなければ成らなかったのが映画というものです。
この細かい枕の方向転換というのは、千尋の成長とシンクロしている、映画は台詞でストーリーを語り、尚且つ画面の動線で主として情感に訴えるような補足をしてるのです。
だから、理屈っぽく画面の方向と動線を読んでいくと、台詞聞いていなくてもたいてい物語が分ってしまいます。


次は瀕死の傷を負ったハクの「北枕」


ハクを縛り付ける契約、つまり呪いを破棄する為に電車でゼニーバのところに向かう千尋。
その千尋の真剣で不安げなまなざしに重なるように、

ハクの向きが「北枕」から<−ポジティブ方向に転換されている。
物語の必然性から見れば、千尋が飲ませてくれた薬が効いたということなのでしょうが、
画面の流れから見ると、千尋の勇敢な思いやりが彼の傷を癒したといういことでしょうか?

普通の人は、私のような画面の方向だけを読むと言ういびつな見方はしませんので、物語の合理的必然性に、画面の方向や音響色彩から与えられる情感操作の為のサブリミナルな情報を考慮して、物語を解釈していきます。


そして再び あれっ と驚かさせれるのは、せっかく直ったはずのハクが、「北枕」から起床という掟破りをやるのですね。

おい、おい、せっかく治ったのにゾンビになってどうするんだ?と思いもしましたが、

画面の方向だけから『千と千尋の神隠し』を解釈してみると、ゾンビになった千尋がテーマパークに幽閉されるのですが、ゾンビの呪いはハクが引き受けてくれる事になり、千尋はめでたく現世に復帰できる、そういうことかもしれません。
このテーマパークというゾンビの世界、いや、さかしまの世界といった方がいいのかもしれませんが、ここでは基本的に、「北枕」でなくてはいけないのでしょう。
そして、治ったハクが千尋の「北枕」という名の呪いを引き受けると形で、千尋の呪いが解けることになります。
まあ、どの道ハクは千尋と一緒に現世に行くことが出来る存在ではありませんが。

このように解釈しても別に矛盾はありませんが、
普通の人は、物語の合理的解釈として、家族愛とかほのかな初恋とか社会的成長というものを重視するでしょう。

そして私もそのような解釈や感想が悪いとは全く考えておりません。宮崎駿もそのようなものをおそらく狙って映画を作っていると私は推測しますし、そして観客もそのように受け止めているなら、送り手と受けての間で立派なコミュニケーションが取れていると言えるでしょう。

私が言っているのは、画面の方向を主として音響とか色彩というサブリミナル的な伝達方法というのは、音楽で言うところの対位法的に物語と絡み合って観客の心に作用しているのだろうと言う事です。
そして、本来耳に入りにくい方のサブリミナルな旋律の方は比較的に単純で明白で見間違いようがほとんどありません。
だから、サブリミナルな旋律を読んでいれば、とんでもなく音痴な映画の解釈はありえないだろう、と私は考えています。