『風の谷のナウシカ』 ポジティブな絶望 ネガティブな楽観

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。









私、『ポニョ』はまだ未見なのですが、『ハウルの歩く城』から推測するに、そして『ポニョ』の微妙な評判から推測するに、

最近の宮崎駿作品の主人公のキャラクター設定は、『風の谷のナウシカ』のような責任感義務感とは無縁で、世界とか社会とか広い視野とも無縁で、図々しくてあんまり可愛くなくて、自己中心的というふうに宮崎駿は舵を切ったのだろうと私は推測しているのですが、


そういうキャラクターは何も背負っていないのですから、明るいお気楽な人たちと考えることもできるでしょうが、
それは単純な見方でしょう。
そして天下国家を論じるような態度が、本当に責任感ある態度なのかというと、そうとばかりも言えない訳でありまして、



風の谷のナウシカ』のベクトルや画面の方向を読んでいると、普通の日本映画通りに<ーの方向に風が流れているのは明白なのですが、

何を目的として、その方向に風が流れているのか、複雑なのです。

環境問題を解決して人類は千年王国の繁栄の時代に至るべし、というような映画ではありませんし、
そしておそらく、自然との共存の中で、人類は半永久的なささやかな幸せに安住することができるという主張でもないでしょう。

私が、この複雑な要素を<ーの方向に押し流そうとする映画の底にある思念というものは、もっと暗いもの、
私が簡単にまとめてしまうと、
「人類は、エコシステムの中で他の生物植物さらには無機物質の領分を過度に犯すことなく自分の分を守ってささやかに生きるべきである。そして分を守るという考えの中には、滅ぶべき時には無駄あがきせずに滅ぶべし。というペシミズムも含まれる」


いくつかの場面で、極めて定型的な方向操作が行われていることから、この映画にははっきりとした進行方向があると考えられますが、この物語が<ーの方向に流そうとしている要素には、非常にペシミスティックで、死を許容しない限り目を背けたくなるようなグロテスクな要素が色濃いのです。


風の谷のナウシカ』と比べると『ハウルの動く城』の図々しさとその行動原理を支える楽観性というのは、人類の滅ぶ時まで見据えた上でどうのこうのと考える暗さは毛頭ありませんが、ある意味、人間なんか滅ぶべくして滅ぶのだから、それまではせいぜい悪あがきして明るく楽しんだらいいんじゃないか、人間程度が破壊し尽くせる地球や宇宙ならそもそも大した価値何か最初からなかったんだろう。という、ある意味での最強のペシミズムがあるのではないでしょうか。