『ハウルの動く城』 どうして女の子は旅立ったのか?について

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。







以前、トラックとか遺影とかフィギアとか、人間でないものでも立ち位置と移動方向を指定してやれば映画の中では人間同様演技できる、と書いています。

演技と言うか演出と言うべきなのでしょうが、普通の人間は、トラックやフィギアや遺影が演技をしているなんて考えていないので、それらの存在感は、観客の心理に無意識的に作用していると私は考えています。

そして、『ハウルの動く城』、冒頭の煙のシーンですが、煙が映画に於いて演技することは結構あります。私の思いつく限りでは、『ロッキー』『誰も知らない』ブリキの太鼓』『ハゲタカ』…いくらでもあるでしょう。


それでは、『ハウルの動く城』の冒頭シーンを見てみましょう。


この映画では「動く城」は一部例外を除き、淡々と<−方向へ動きます。
煙は進行方向と逆の方に流れます。


産業革命期の都会では、煙が街の主人公。「動く城」が吐き出す煙とは逆の方向に流れています。


そして帽子を作るしかとりえのない女の子の部屋の窓では、どす黒い煙はspan class="deco" style="color:#0000FF;">−>方向に流れ、街の光景の煙の流れ方とは反対です。つまり、この街は彼女のホームタウンでありながら、彼女にとってアウェーみたいなものです。そして、彼女には友だちも恋人もなくて、特に楽しい事もありません。ただ仕事だけ。


ハウルが街に来たんだって」
「…って子が心臓盗られたんだってね」
「まあ、怖い怖い」
他の従業員達は、休暇の兵士狙いで遊びに行ってしまいます。



空を飛ぶ飛行艇は、「動く城」と逆の方向に動きます。
これは、「動く城」が魔法であるのに対して「飛行艇」が科学。そして「飛行艇」が戦争を想起させる道具であるのに、ハウルは戦争が厭でその流れに馴染めない、という事を表現しているようです。



女の子は、遠くの「動く城」を眺めていましたが、また仕事に戻ります。
今度は汽車が<−とポジティブ方向に走り、それに続いて煙は−> にもう一度流れています。

この煙の流れは、そして汽車の動きは物語の何に対応しているのか、もしくは何の変化に対応しているように見る側には感じられるのか?ということですが、

女の子が「動く城」に興味を持った。そして、あれに乗って遠いところにいけたらいいだろうなと思ったのかもしれない、
見る側にはそんな風に感じらるかもしれません。
「動く城」の進行方向と煙の向きは、女の子の窓辺の汽車とその煙の向きと同一ですから。
ただ、女の子の表情には、特に何も現れているようには見えませんし、煙の流れる場面では、彼女の後姿しか映していません。
たとえ変ったとしても、それは女の子自身も気がつかないような些細な心の変化なのでしょう。そして往々にして観客もこの変化を見逃しています。画面を見てはいるのですけれども、その変化を見逃しているのですね。
そして奇妙な事に、その見ているはずなのに意識していないと言う状況と、自分の心理の変化に無頓着であると言う女の子の心理のあり方がばっちりと対応しているのです。

つまり登場人物の無意識的な心の流れを観客も無意識的に共有している、
映画はずっと以前からこの興味深い手法で観客の心理の奥に語りかけてきています。

もしくは、この煙の方向の変化は、もっと漠然とした予兆のようなものでしょうか、「動く城」が現れたことで、その後何かが変る。そしてその前段階として煙という一番些細なものの流れる方向が変化した。そして、その変化は、女の子も見ている私たちも、心の奥の方でかすかに感づいただけのものであるに過ぎない。


そして女の子も街へと出かけます。女の子のいそいそした気持ちにそぐうように<−方向移動。


そんで、鏡を見たら、一気に幻滅。そして−>に向きが変換されます。
鏡を使って、登場人物の方向を変換するのは古典的な方法です。


そして、暫らく −>のネガティブ方向に移動が続きます。


この女の子はブサイクなのかどうなのか分りませんが、少なくとも自分のことをブサイクだと思っている女の子です。そして、その劣等感から街に出ても心がふさぎガチ。もしくは、そのような女の子の思い込みに重なる形で、街の中で何がしかの災難が待ち構えていると言う予兆を −>方向のネガティブな移動で作り出していると考えるべきでしょう。

一つの流れの中に、いくつかの要素が重ねられている状況を私的造語では「相乗り」と言います。
この「相乗り」が上手くはまれば、物語はより骨太になり画面上の展開は速くなっていきますが、あまりにやりすぎると図式的過ぎて理に落ちたつまらない物になってゆきます。

家を出てからずっと−>方向に動き、兵士に絡まれ、「荒地の魔女」の手下に襲われ、


そして訳の分からないままに空に舞い上がっておっかなびっくり。




「ここで、空中移動のコツがつかめたら、左側に進行方向変るんだよ」

「ほらね」
「なんだ、見たことあるんだったら、別の映画見ようか?」
「いや、初めて・‥」
典型的な画面の切り替えしですから、見てりゃ予測がつきます。



テラスに天子のように舞い降りる。


街は休暇の兵士でいっぱい。そしてイケメン兵士狙いの着飾った女の子でいっぱいで、みんなは広場でワルツを踊っているのだけれども、さっき二人が空の上で踊ったようにステップを踏めるカップルは誰もいない。
街で一番素敵な恋の始まり。

それから一貫して、女の子は <−の方向に進む。



物語本来の進行方向<−にそった移動。つまりこれらは主人公が物語の目的を見つけた後の行動だと言う事。


荒地の魔女」のせいで、婆さんに変えられてしまい、家を出て魔法を解く為のたびに出かけるが、実は、「ハウル」とであった時から彼女の移動は既に<−方向に固定されている。

つまり、彼女が旅立ったのは、魔法を解くためではなく、恋をしたからという理由であり、それ故父親から引き継いだ大事なはずの店を離れる時もほとんど何の感慨もなさそうに去る。明日からの店の経営はどうするんだ、とか、家族知り合いとの付き合いはどうなるとか、
まあ、魔法で喋れなくされているから、どうしようもないのですが、主人公、そういうことで悩んでいる節がまるで見られません。ある意味、物語の必然、この場合は宮崎駿によくある世界の運命を背負った女の子に必然的にある責任感とでも申しましょうか、そういうものから相当程度自由なキャラクターであると言う印象を受けました。


ハウルの動く城』を見て感ずることというのは、女達の図々しさでしょうか。「荒地の魔女」が図々しいのは当然として、王宮づめの魔女も十分図々しいですし、主人公もオバちゃんどころかババアの開き直りにみちています。

宮崎駿の代表作『風の谷のナウシカ』のように世界を駆け巡る求道的な女の子ではなく、この図々しい女の子ともババアともつかない主人公は、自分に掛けられた魔法を解くために旅に出るとはいえ、極めてあっさりと自分のほれた相手の家に居候を決め込んでしまいます。
そしてその時点で、彼女の旅は実質終わりを遂げるのですね。
ナウシカ」と比較した場合、なんという怠惰な主人公だろうという気がするのですが、そして「ナウシカ」と比較した場合世界を救う為の自己犠牲とかそういうものがなくて、ただ自分とその周囲の人数人の閉じた世界観の、まあよくいるオバちゃん的世界観の持ち主なんですわ。


そして偉すぎる「ナウシカ」よりも、こっちの心に少女を宿したババア、もしくは心に宿した少女さえババアの外面に侵食されつつあるババアの方がリアルであると言えば、リアルな女と言えるのでしょう。
宮崎駿、あの年になって突如女に対する見方変えたんでしょうか?