以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
『ピンポン』 窪塚洋介、ARATA、私大好きなんですけど、それはホモ的話とは関係ないです。
そして、この映画は、ちょっと、ホモ臭強すぎるかもしれません。
この映画、もともとマンガですから、そのマンガのカット割りを基にして出来ている映画のはずなんですが、そのせいもあって、カットの切り替えがやたらと細かい。
正直、ここまで細かい映画って、なかなかないですわ。
言うならば、映画監督の前に、漫画家がカット割りを行っており、それについて不都合な部分がない限り、そのまま撮影してるような映画です。
基本、天才の立ち位置が−>側で、凡人の立ち位置が<−側です。
何べんか書いていますけれど、
天才って、凡人から見たら分けわかんない存在ですから、−>です。
人から理解される事もない天才の立場を互いに譲り合っている、そういう映画に見えるんですね、この『ピンポン』は。
結局窪塚洋介が、天才のポジションに着いて終わるんですけれども、
天才の孤立したポジションから凡人のポジションに移れれば、それで心の安らぎは得られるのでしょうけれども、
天才たる事をあきらめた悲しさって言うものもあるのですね。
そして天才であり続ける悲しさってのも有るわけです。
この映画の物悲しさってのは、その辺から来るんだと私は思いますよ。